静かなる観察者◇
サクは、第九隊隊長のセキを探した。
銅の邑を迷い歩く。
彼女は、邑の再建を指導していた。
セキは非戦闘部隊を統べるため、その業務は多岐に渡る。
その日は、邑の神殿を修復していた。
「セキさま、お忙しいところすみません。ご無沙汰しております」
「サク。久しぶりだねぇ。なんだか、悩んでいたみたいじゃないか。なかなか相手してあげられなくてすまなかったね!」
セキは母のような存在である。中肉中背で、相変わらず満月のようだ、とサクは思った。サクは隊長のなかでは、最も信頼を置いている。
セキはサクの両頬をつねった。
「サク、悩みをひとりで抱えちゃだめだよ」
サクの頬は痛みを覚えたが、嫌ではない。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、セキさまに相談がございます」
「なんだい?」
「率直に申し上げます。キビさまの諜報部隊を受け継ぎたいのです」
「サク……」
セキは一瞬うなだれたかと思うと、サクの両肩を強くつかんだ。
「……待っていたよ! わたしも正直、手に負えていなかったからね」
「待っていた? とおっしゃいますと?」
「もともとあの娘たちのことを、婦好さまはサクに継がせるつもりだったのさ。サクに会わせたい娘がいる。日没後、サクの部屋に行かせるからね。仲良くするんだよ」
***
陽が落ち、あたりは闇に包まれた。
月明かりだけが、山肌を照らす。
夜半、銅山の麓はしんとして冷たい。
サクのためにあてがわれた部屋。
サクの寝台のまえに、少女は突然、現れた。
まるで月明かりがいつのまにか足元を照らすように、違和感のない侵入である。
少女はどこにでもいそうな面持ちであった。
年少にも大人にも見える。
どこか、サクに似ていた。
「サクさま。はじめまして。わたしは元第八隊の者。そして、あなたにお仕えする者です」
彼女の声は明瞭、高くも低くもない。
「はじめまして、サクと申します」
「わたしに名はありません。名乗らぬ不躾をお許しください」
名を名乗らぬ不躾、と言われ、サクは不思議に思った。
「……? お名前がないとはどういうことでしょうか」
「我々は影に生きる者。影に名などありません」
「影に生きる者……ですか」
「サクさまは情報が欲しいのですね。わたしもサクさまに関しては調べさせていただきました。サクさまは巫祝南の娘。女同士でありながら、婦好さまの恋人。それゆえに軍内部での発言権は高い」
婦好の恋人と言われ、サクはうろたえた。
「婦好さまとは、そのような関係ではありません」
「情報とは見聞したものです。正しいとは限りません。どう扱うかは、受け取るかた次第です。サクさまは、占いと戦略をあやつり『文字』を知る」
文字は王室の秘匿のはずである。
目の前の娘がその存在を知っているのはなぜか。
「なぜ、『文字』をご存知なのですか」
「文字が秘密などということは、安陽の権力者の思い込みです。そもそも王は隠そうとはしていません。ゆえに、我々はその存在を知っています。ただし、習得しているわけではありません」
たしかに、安陽にて文字を秘匿とするのは巫祝の長くらいであった。
王に隠そうなどと思っている様子はない。
「この数日間、サクさまの動向を観察させていただきました。サクさまは、死を重くみすぎます」
娘はサクへ手首を差し出し、短刀を手渡す。
「サクさま。わたしたちから情報を得るということは、わたしたちの命を使うということです。わたしのこの手首を、斬ることができますか」
目の前の少女の言に、サクは答えた。
「なにをおっしゃるのでしょうか。斬る必要がありません」
「では、わたしがサクさまに傷をつけることと、わたしの血が流れること。どちらが良いですか」
「どちらも無用な血が流れるのは嫌います」
「どちらかといえば」
「自分の血が流れたほうがましです」
「では、あなたがわたしとなり、わたしはあなたとなります。これは契約です」
言うなり、目の前の少女は己の手首を浅く切った。
「なにを……!」
「わたしは、サクさまのために命を賭けます」
そう言うなり、少女は懐から羊型の杯を取り出し、血と酒を皿に注いだ。
「血」という文字は、宣誓のために皿に血を注ぐことをいう。
少女の流れるような儀式を、サクは見つめた。
そののち、少女へ問いかけた。
「あなたは、命を賭すると申しました。ですが、あなたとは今日出会ったばかりです。キビさまは同じように契約されていたのでしょうか」
「いいえ。キビさまのことは、よくあることです。わたしは、実はサクさまのことを尊敬しております。もともと婦好軍にいた、犠牲たる少女たちのことです」
「犠牲の少女……媚女ですね」
サクは、戦の前に一列に並べられた少女たちを想った。
神への犠牲として、命を失ったものたちである。
「サクさまは婦好さまを説得して犠牲を廃しました。わたしも、婦好さまですら、長年の慣習に疑問を抱かなかった。しかし、サクさまは違いました。そして、実行された。これは誰にでもできることではありません。簡単なようでいて、難しいのです。元第八隊の犠牲候補として、感謝しています」
サクはたしかに婦好軍の犠牲を廃している。
そのように、誰かに評価されているなどということは、サクはそれまでは知らなかった。
「しかし、これからはあまり死に敏感にならないでください。情報のために、わたしたちは人知れず死にます。サクさまにわたしたちの感謝が伝わらなかったように、わたしたちの死もまた伝わらなくていい」
たしかに、情報を得るには対価が必要だ。
命を落とすこともあるだろう。
──そこまで冷徹にふるまえるだろうか。
「情報は、得たいと思っています。しかし、無理のない範囲で結構です。あなたがたには、ご自身の命を最優先に考えることを命じます」
「甘いですね。その甘さ。サクさまのことは主と認め、好意的にみていますが、とても危ういと評します。こちらの判断で、命令に従わないこともあるかもしれません」
「いいでしょう。命令に従わなくても構いません」
「サクさまはこちら側の厳しさがどのようなものなのか、わかっていらっしゃらないようですね」
「おっしゃるとおり、無知でしょう。ゆくゆく、教えていただければよいのです。しかし、……やはりあなたの名がないのは不都合です。なんと呼べばよろしいですか」
「でしたら、第八隊の者。ハツネとお呼びください」
サクは、ふと『八』という漢字を思い浮かべた。
八とは、左右に分裂する形である。
サクの行動もまた相反している。
将来の少女の涙ために、目の前の少女の命を使うという選択──。
「ではこれより、ハツネとお呼びします」
サクが言うと、彼女は笑みを浮かべた。
ハツネの年齢はいかほどだろうか。
笑ったときにできた顔の陰に、年上の相を感じた。
「我々からお願いがあります。我々を使う方は、影の勢力から命を狙われます」
ハツネの目つきに厳しさが増す。
「敵は婦好さまを闇で討つことはしません。婦好さまを討つときは表舞台です。しかし、もしサクさまが敵の脅威とみなされればあるいは……敵にとってはサクさまが無能であるほど、生かします。有能であれば、命が狙われるでしょう」
闇討ち。
そのようなことは、あってはならない。
もし敵が狙うとしたら、たしかに無名の者を人知れず存在を消すだろう。
「毒を覚えてください。第九隊のシュウさまが、サクさまのために用意しています」
シュウ。サクは第九隊を懐かしく思った。
シュウは食医の担当である。
怪我人看護のために、シュウもまた忙しい。
「サクさま。これよりは、わたしはあなたの分身になりましょう。そのかわり、よりいっそう命を狙われることになるとお考えください」
ハツネは、恭しく礼をした。
サクもそれにならった。
特に何もなければ、三日おきの日没後に訪ねます、と言って影は去ろうとする。
サクはとある疑問を投じた。
「ハツネは、わたしによく似ています。それはなぜでしょう」
「あなたに似ているのではありません。服装、髪型、声色。あえて、似せているのです」




