玉の腕環
目的に向かって歩むと決めた。
──そのための情報が、足りない。
弓臤という頼みの綱はいまは遠くにいる。
キビはかつて諜報活動を任されていた。
そのことは、セイランの発言までサクは気がつかなかった。
確かに思いあたることはある。
いまの婦好軍に足りないのは諜報部隊である。表立った組織は、という限定であるが。婦好だけが得ている情報はあるのかもしれない。
──婦好さまは、わたしにすべてをお話ししてくださるわけではない。
自身のみが知り得る経路で、もっと情報を集めたい。
「リツさま、相談がございます。婦好軍の諜報部隊とはどのようになっているのでしょうか」
「たしかに以前は、キビが一部を任されていたようだな」
「リツさまも同席されていたのでしょうか」
「いや。婦好さまは、わたしも含めて人払いをする。諜報部隊は闇に紛れ、姿を現すことはない。婦好さま直属だ」
「では、誰にも明かされていないのですね」
サクが顎に手を当てて考えていると、リツは助言した。
「サク。とても大事なことだ。婦好さまに直接相談してみてはどうだ」
***
その翌日、婦好軍の帰還を伝令が告げた。
衆人と戦闘を行うための仮陣営を引き払うということである。
翌々日には婦好軍の本隊は銅の邑へ到着した。
──敵と対峙していたのに、帰りが早すぎる。
サクは第一隊隊長のレイに問いかけた。
「衆人との戦いはどうなったのでしょう」
「セイランが収めたわ」
「収めた? どのようにでしょうか」
「あの夜の続き。セイランは首長と恋人関係になったの」
「和睦ということでしょうか」
「かたちの上ではね。実際は身体を売ったのよ」
レイは冷たい面持ちで吐き捨てるように言った。
サクとレイが話している場に、どこからかユイが現れた。
ユイは手に木の実の入った籠などを抱えている。
「サクさま。婦好軍は、敵と和睦をしたのですか?」
「はい。商の別の部隊が和睦したそうです」
「どういうことでしょうか。婦好軍はそれを許したのですか? どうして許したのですか」
ユイは、母や故郷を破壊された怒りをあらわにした。
「あいつらは母さんを殺したのに……、邑を燃やし尽くしたのに……! わたしは、あいつらが憎いのです。許せません。それは邑人全員の同意です」
「ユイの気持ちはわかります。ですが、婦好さまも和睦に応じた相手には手を出せません」
サクは、ユイの肩を撫でた。
仇とする者が味方になる。
仇討ちを望むとしたら、無念を晴らすことはできない。
──こればかりはどうすることもできない。できることなら、殺し合いの前に動けたなら理想である。
「そうね。許せなくても、受け入れなきゃいけないこともあるのよ」とレイも言った。
「うっ……、受け入れられません……!」
「わたしの勘では、まだまだ戦う機会がありそうだけれど。その時は任せて。わたしもあなたのお母様のために、戦うわ」
「……まだ、戦う機会はあるのですか? でしたら、サクさま……! わたしを、婦好軍に入隊させてください。わたしも戦います!」
「ユイ、それは婦好軍に志願するということですか?」
「はい。戦わせてください!」
ユイの瞳の底には憎悪の感情が見える。
まだ幼さの残る顔には、危うさも秘める。
「ね。あなた、何歳?」
レイの問いに、ユイが答える。
「九を数えます」
「五年早いわね」
切るようなレイの言葉に、ユイは唇を噛んでうつむいた。サクはレイに続いて答えた。
「レイさまのおっしゃるとおり、ユイが従軍するにはまだ早いです。それに、」
サクは破壊されたあとの邑しか見ていない。ゆえに、それ以前に誰かが治めていたのかを知らない。しかし邑の再建には、ユイと彼女の父を中心に治ることが適任と感じている。
「この邑にはユイが必要です」
***
セイランは邑を襲った衆人と和睦した。
醜悪なるやり方。認めるわけにはいかない。
セイランをそこまで動かす理由はなにか。
婦好は、どのように考えているのか。
──まだ見えていない。
起こった出来事が、見聞してきたものが、繋がるようで繋がらない──。
いま、己に必要なのは──。
***
サクはその晩、婦好の寝所を訪れた。
「婦好さま、以前はキビさまが諜報部隊としての役割を任されていたとお聞きしました。だとしたら、第八隊であるわたしが担うべきではないでしょうか。我が軍の諜報部隊の全貌を教えていただきたいのです」
「いいだろう。サク、こちらへ」
婦好は机の上に動物の形をした玉製の置物を悠然と並べる。
馬、象、虎、鳥、魚、熊。
蝋台の炎に、それぞれの影が揺らめく。
「わたしの情報の経路は大きく三つある」
馬の置物の周りに、象、虎、鳥を置いた。
「ひとつは大邑商。王よりの情報」
「ひとつは弓臤よりの情報」
「ひとつは姉。好邑よりの情報」
「キビの経路はあともう少しで完成するところであった。たしかにキビの抜けた穴は大きい。その意味では」
婦好の美しい指先は魚の置物に触れたあとに、熊の置物を弄んだ。
「セイランは是非とも手に入れたい人材である」
サクの視界が一瞬暗くなる。
──婦好はセイランのやり方を肯定するのか。
軽い失望と、わずかにある羨ましいという気持ち。
これが嫉妬か──。
「サク。この戦いは、小さな邑の小競り合いではない。後ろに、蒙方という勢力の存在がある」
婦好は伝説上の獣を模した銅の器を三つ、机上に新たに置いた。
「さらに、その後ろには、鬼方と土方の連合体があるだろう」
「鬼方と土方……。つまり、鬼公と呂鯤」
「そう。商に対抗する勢力たちだ。わたしがここまで動いていないのは、なにも知らぬわけではない。敵の出方を、セイランの力量を見ている」
ない婦好さまは、なにも知らないわけではない。
婦好さまは、セイランさまを試している。
そして自身もまた、試されている──。
婦好の柔らかな前髪がサクに近づく。
「サク。諜報部隊が欲しいか」
「はい、……欲しい、です」
婦好がサクの手首を取る。
魚の置物が、サクの指に渡った。
「サクはすでに持っている。形を成していないだけだ」
「すでに持っている……? わたしが?」
「もといた部隊に聞くがよい」
「もといた部隊……」
サクは、はっと、気づいた。
「第九隊」
「なければ、つくるのだ。サク。思う存分に命じるがよい。使えるものは、使え。わたしの許可は与える」
──つくると言えば、つくれるものなのだろうか。単純なものではない。
「諜報は命がけです。その命を、わたしは背負うこととなります」
「そのとおりだ。情報には『信』と『貨』が必要だ」
婦好は部屋の奥から、木箱を取り出した。
品のよい装飾の二段重ねの木箱。
上段にあったのは、玉の飾り、宝石類、黄銅。どれも精巧に作られている。
下段にあったのは、子安貝。
「これらはわかりやすく人を動かす。サクに与えよう。きっと使えるはずだ。しかし、それだけでは人は動かぬ。それらはきっかけに過ぎない」
確かに、宝石の輝きは瞳のようである。人を惹きつける魔力を持つ。
また、子安貝は希少性が高い。
ときには命よりも、これらを欲する者はいるだろう。
「どのように使うかは、サクが考えよ。それから、この腕環を。これは常に身につけよ。誰にも渡すな。わかる者へ、必要な時に示すがよい」
婦好の左手首からサクの左手首へ。
玉製の腕輪が渡る。
「サクがわたしの一部である証だ」
朝の空に似た石。
少し重いが、玉のもつ滑らかな肌触りが心地良い。
「これは……普段から婦好さまが身につけていらっしゃる腕輪……このような大切なものをいただいてよろしいのでしょうか」
「良い。物は物でしかない」
直前まで婦好が身につけていたために体温が残る。
その温もりに、サクの胸はおさえつけられるようであった。
「その腕輪には、好族の印が入っている。いずれサクを守るだろう。仮に、その腕輪がわたしのもとに戻ってきたときは、サクは死んだものと認識する」




