清濁の瞳
すべて破壊したい、というレイの戯言を婦好は棄却した。
「セイランの努力もまた、無に帰すことはできない。こうなってしまった以上、セイランの部下を救うことも手遅れだ」
「サク。この進軍の目的はなんだ? 敵の殲滅か」
「いえ。少女を含む、人質の救出です」
「その通りだ。人質の救出に向かう。レイ、リツ。セイランが作った敵の油断の中、探りを入れて、少女たちを奪還しろ。戦闘の有無は問わない」
木と動物の皮で作られた集落に、松明を掲げて踏み入る。
住居を覗くと、醜悪なる場面が目の前に繰り広げられる。
清廉なる婦好軍には、そのすべてが嫌悪の対象であった。
この集落もまた奪ったものなのか。
それとも、仮設のものなのか。
それはわからない。
──情報を得ようにも、いまは無理だ。あまりにも、醜い状況である。
敵はこちらが女の身だとわかると、セイラン軍と勘違いするようだった。
敵は油断している。
抱きついてくる者もあったが、婦好軍の兵士が静かに武具で殴打する。
戦場とは違う臭気に、鼻と口を覆う。
住居の一角に、少女を含む住民と思わしき者達がいた。男達は逃げ出さないように、左足首の肉を斬られている。
そこには、とりわけ意思の強そうな瞳を持つ少女がいた。齢は十くらいだが、住民のなかで最も覇気のある顔をしている。
きりりとした眉は、助けを求めていた父親とよく似ていた。
サクは、怯える集団と少女へ諭すように言った。
「わたしたちは婦好軍。あなたがたを助けにきました」
「信じない!」
少女が反発の意を持ってサクを睨む。
サクは、しまった、と己の浅慮を悔いた。
なにか味方の証となる物を娘の父親か、銅邑の住民から借りるのを失念していた。
「わたしたちは味方です」
「証拠は?」
猜疑の眼差しが、サクに集中する。
──どのように訴えようか。
サクは思案した。
そのとき、サクと少女の脇を華の香りがかすめる。
婦好がふわりと現れて、少女の目線の高さに降りたのだ。
「我々を疑い、ここに残るのも良いであろう。それはそなたたちの好きにするがよい」
婦好は少女の姿をその眼に映した。
婦好の色素の薄い大きな瞳は、見る者すべてを魅了する美しさがある。
「しかし、我々を信じてくれるのなら、悪いようにはしない。もとの邑へ送ろう。信じなくても、いっこうに構わない。選ぶのは、そなたたちだ」
そう言いながら、少女に手を差し出す。
意志のある少女の瞳にもまた、婦好が映る。
婦好は再度、促した。
「選べ。全員が脱出するのであれば、時間はそれほどない。ここに残るか、行くか」
呼吸を整え、意を決した少女は、婦好の手をとった。
「お願いいたします。わたしたちの邑へ、お送りください」
この瞬間、サクは、少女が婦好に魅せられたことを目撃した。
サクはかつての己を視ているようであり、懐かしくも気恥ずかしかった。
──さすがは婦好さまである。こんな小さな子をも魅了してしまう。
──しかし……。
いつまでも、婦好に頼る者であってはいけない。
そもそも、こんな地にまでくる総大将は、ほとんどいない。それが婦好の良い点であり、危うさでもある。
「いつか婦好を失う」という弓臤からの忠告。
それは避けねばなるまい、とサクは想う。
「退こう」
婦好の号令で、撤退した。
第二隊が少女と略奪された品々を守るように、第一隊が足首を負傷した男性を肩で担ぐようにして山を降る。
目的は、少女を救うこと、銅邑の奪われた財産の一部を取り返すこと。
一応の達成はしたものの、依然として敵の目的が不明である。
セイラン軍の情事を目撃したという後味の悪さもまた、拭えてはいなかった。
***
翌朝、セイランが婦好陣営に訪れた。
「ちょっとお! どういうこと? 戦果を横取りしないでって言ったでしょ! 婦好ちんを出して!」
「セイランさま」
鼻がつきそうな至近距離で、サクは問い詰められた。
「セイランさまは、なぜあのようなことをなされたのですか」
「あのようなこと? ……ああ、あんたは、経験ないの? ふふ、箱入りで羨ましいわ。でもね、アレを使えば、ちょっとの間我慢すれば、警戒を解いてくれるし、こっちの望むもの、なんでも手に入るんだよ。とっても簡単。ちょろいよね」
「本気で言っているのですか」
「うん。あなたもやってみる? 婦好ちんも一隊くらい取り入れればいいのに」
「婦好さまは、そのようなことはさせません。絶対に……!」
「んん? なんか怒ってるぅ? でもさ、その怒りは不正解だよ。邪魔をされて、怒ってるのはこっち。それに、身体使うのと、武器を使うの、何が違うの? 同じことだよ。生きられるのなら、死んじゃうよりはいいと思うんだけどな」
「セイランさま個人の行動は構いません。しかし、部下に強制することは、許せません。女性の兵士に対する偏見を増やします。身体を売るなど……」
「婦好ちんだって、女兵士に対する偏見を増やしてるよ? 女も武器をとれば戦えるんだって。お互い様じゃん」
「婦好さまは、個人の信条に反することはしないし、させません。たとえ、小さな女の子に対しても、意志を尊重します」
「はぁ? 信条? 意志を尊重?」
セイランの顔が、かつてないほど歪んだ。セイランは婦好ほどの美しさはないが、幼さのなかに、婦好とはまた違った妖艶さを秘める。
「あははっ、甘すぎて、笑えるわ。仕える人のために、身体を使うことのなにが悪いの? 交わるよりも、殺しあうほうがマシなの?」
「血を流すよりもさ、お互い気持ちよく終わるなら、そのほうがいいじゃん」
言葉で頭を殴られたような感覚に、サクは陥った。
セイランの言うこともまた、一つの意見であるようにも思える。
──戦争の方法に、善悪はあるのか。
女という性を持って生まれ、どう戦うか。
婦好軍は、血を流したうえで戦いを収束させる。
セイラン軍は、女であることを活かして、血を流さずに収めようとしている。
どちらが正しいのか。
優劣など、あるのか。
結果からすれば、セイランのおかげで、少女の身に醜悪なる事態が起きなかったとも言える。
──しかし。
本当に、それで良いのだろうか。
望まない交わりを、許容してもよいのか。
「セイランさまが、そのように考えていたとは存じませんでした。しかし、配下のかたは同じ考えなのでしょうか。セイランさま自身はそれでよいのですか?」
「だからぁ、良いって言ってるじゃん! それに、なに、さっきから! 言っていることが小さすぎるよ。大邑商の権力を拡大しようっていう目的で、わたしは動いてるの。大きな観点からしたら、なにを戦闘に使おうかなんて、些細なことだよ? やっぱり、あんたじゃ話にならない。婦好ちんに会わせて」
目の前の女性は、強がっているのではないか。
その姿は真実のものなのだろうか。
着飾った言動の奥に、悲鳴をあげる少女が隠れてはいないか。
婦好は眼前の女性に対して、「いつか己を壊す」と危惧した。
──その意味するところは、なにか。
「救います」
「は?」
「わたしと、婦好さまで、セイランさまを救います」
「何言ってるの? あたしの話、聞いてた?」
「セイランさまとは違う方法で、勝利を掴みます。その上で、必ず、あなたを救います」
「ふーん、よくわかんないけど、勝手にすればぁ? もう、話にならないから、あたしは婦好ちんに会ってくるね! ばいばい!」
セイランは婦好陣営の中央へ姿を消した。
たしかに、セイランの言うことは一理ある。
しかし──。
サクの胸に住まう、違和感。
──なにが正しいのか。わからない。
前提が間違っているかもしれないし、偽善的な考えかもしれない。
──セイランは女の武器を駆使する。部下にも強制する。それを是としているが、もしその本音に偽りがあるならば。果たして、是として良いのか。認めても良いのか。
その問いの答えはださねばならない。




