邪な邂逅
婦好軍は男の邑を離れて、敵の追撃を開始した。
婦好とサクを乗せた馬車は、岩質の山肌があらわれる谷間を進む。
山の風に、サクの長い黒髪は揺れた。
サクが微王のもとで文字を創生してから半年。
その間、婦好軍は強化を図っている。
例えば第二隊の機動部隊化、第六隊の弓兵化。
女は、産まれながらにして男よりも弱い。
戦場という場において、その与えられた不利をいかにして埋めるか。
婦好とサクは半年で弱点の見直しを行った。個々の能力の把握と適性を組織的に磨きあげることにしたのである。
「第二隊!」
婦好の号令により、第二隊が疾さをもって敵を追う。
サクは、目を凝らして敵を探した。
敵は血の時間の経った茶色の衣に、短い黒髪。
彼等は山賊のようにも見えた。
逃げゆく敵は、馬車の入ることのできない山道を散り散りとなって去ってゆく。
──これでは、敵を捕らえることができない。
標的を失い、婦好軍は徐々に進撃を緩めざるをえなかった。敵は山の木々の間に次々と消えてゆく。
──追うことができるのはここまでか。それとも、ひとりでも追跡できれば、本拠地を炙り出せるだろうか。
銅邑の娘を完全に無事に救うためには、残された時間は僅かである。
標的を探すため、サクは辺りを見回した。
切り立った崖の上に、風変わりな服装をした男が立つ。
裾広がりの異国の服、土色の短髪。
年齢の定かではない少年のような顔。
男はつぶやいた。
「へぇ、商には女の軍があるんだ。結構、疾いね。女が強い家は、いずれ滅びるとは聞くけど」
女性を軽視する発言に、サクと婦好は風変わりな装束の若者に注目した。
「そなたは?」と、婦好が問う。
「やや、見つかった。退散、退散!」
彼は慌てて、山の奥へと消えた。
「逃げられてしまいましたか」
やがて目的を失った婦好軍が山の麓にあつまる。
「一度、様子をみましょう。残念ながら敵の正体は、いまだ不明です」
サクが所見を述べたそのとき、耳に残る高い声が響く。
「なになに? 婦好ちん、敵の正体もわからないの?」
声の主はセイランであった。
婦好軍の間を切るように、馬車に乗って現れたのである。
「あの人たちは『衆人』。本拠地を置かない流浪の民。誰にも属さない集団だよ」
「誰にも属さない……集団ですか」
「なになに、大丈夫? 婦好ちんの部隊。そんなこともわからないなんて、諜報部隊の怠慢じゃない? キビちゃんはなにしてんの?」
「先の戦いで、キビを失ってしまってな。諜報隊は手薄だ」と婦好は言った。
「え、死んじゃったの? キビちゃん、役立たずねぇ」
死者を貶める発言に、サクは静かな怒りを抱いた。
「セイランさま。死者に対して、そのような言い方」
憤るサクに対して、セイランはさらに挑発する。
「だってぇ。キビちゃんとは同郷だけどさ、役に立たなければ価値はないよ。それとも、あたしがしくしく泣けば、あなたは満足?」
セイランが泣き真似をした。
サクの声なき怒りを婦好は察して、なだめるようにサクの肩を両手で包む。
「セイラン。我が軍は諜報部隊が手薄で困っている。諜報専門部隊として、我が軍門へ入らないか?」
「まさか、ん。婦好ちんは競合者。でも、ね。あたしが敵のところへ潜入してきてあげる」
「セイランさま。潜入とはどのようになさるのでしょう」
「ふーん、ないしょ」
「セイラン。以前、わたしが贈った、車馬二百乗はどうしたのだ」
「まだ、訓練が終わってなくって。使い物にならないの。婦好ちんの言うとおり、人が育たないとだめみたい」
セイランは上機嫌にその場でくるり、と回って告げた。
「婦好ちん。あたしね、戦いが始まるの、ずっと待ってたの。ここの邑を守ることは、商にとってみたら、とってもちいさな争い。でも、小さな争いであったとしても、婦好ちんよりも良い働きができれば、商王も新しい婦井軍を重宝してくれるはずだわ。婦好軍よりもね」
「セイラン。戦いとは商内部の権力闘争の材料ではない。そのような考えでは、いつか己を壊すぞ」
「ふふ。武力で権力を広げてきた婦好ちんには言われたくないよ。婦好ちんには絶対にできないやりかたで、成功してみせるの」
「セイラン、どのように戦うか、その方法は自由だ。しかし、己の信念に反することはしないほうがよい」
「指図しないで。この戦い、武功をあげるのはあたし。なんたって、新しい婦井軍の初陣なんだから!」
「セイランよ。救いを求めるときは我が軍を頼るがいい」
「そんなことはしないよ、婦好ちん。黙ってみててよね。それから、絶対にあたしの武功を横取りしないでよね!」
そう言って、セイランは去った。
──セイランさまはどのように戦うのか。
サクは、セイランの軍に対しては危うさを感じた。
日没後、月が叢雲に隠れる。
婦好軍は近くに野営することにした。
とある山の上だけが、いつまでも明るい。
篝火が漆黒の空を灯す。
山頂の一部に、鮮やかなる新緑が描き出されていた。
「婦好さま。あちらに、おそらくセイランさまがいらっしゃいます」
「セイランはおそらく、醜悪なる方法で敵に探りを入れているに違いない。このままここで待っていては、それは婦好軍ではない」
「はい」
「第一隊、第二隊」
婦好の呼びかけに、第一隊隊長のレイと、第二隊隊長となったリツが現れた。
最低限の武具を備えた。
馬車は使うことができない。
夜半に紛れて、迅速に斜面を登る。
暗がりのなか、松明が天を灯すその一点を目指した。
サクもまた続いた。
鬱蒼とした山道を駆ける。
誰よりも先に敵の宿営地に到着したレイが囁いた。
「最悪ね」
「全部、消してもいいかしら」
敵の野営地で婦好軍が目撃したのは、複数の男女が交わる醜悪なる光景であった。




