武丁記
※商王(武丁)の過去。独立の短編としても読めますが、読まなくても本編に影響しません。
その子供は、吃音だった。
赤児の頃から泣くこともない。
生まれつき、言葉をうまく発することができなかった。
その赤児は王の嫡子。
名を昭という。
その頃、商の王室には多く争いがあった。
強い指導者が居なかったからである。
子が父を殺し、弟が兄を殺す。
昭の父、先代の商王は病で死んだ。
王の死により、嫡子たる昭はあっさりと即位した。
反対する者もなかった。
先代の王に子が少なかったこともある。
しかし最大の理由は、邪臣たちが『言葉を発しない王であれば操りやすい』と考えたためである。
在位後二年。
王は、ただ玉座を温めるだけの存在となった。二年間、一言も発することはない。
若年の王は内心、憤った。
建前では第一の権力を持ちながら、なにもできずにいる。
利己的で権力を恣にしようとする邪な臣下に利用される日々。
言葉にこそ出せなかったが、その怒りは増幅していた。
朝に玉座を温めながら、夕に猛り狂った。
王はとても賢い。
それは誰も知らないことだった。
思考を外に開示する方法がなかったからである。
大海の荒波のように渦巻く思考を、王は内で飼い続けていた。
古来より、王は天帝たる神と交信できると聞く。
いつしか、王は天に祈った。
言葉が欲しい、と。
ふ、と、王は感じた。
──神は己の中にいるのではないか。
あらゆるもののなかに、神は存在する。
ならば、自分の肉体にも居るはずである、と。
内なる神に問いかけた。
──神よ。
己に言葉を授けよ。
言葉が欲しい。
ある雨の日の夕暮れ、雷が鳴った。
「王、本日は雷鳴。凶事にございますれば、外にお出になることはありませぬように」
巫祝の言も聞かず、王はふらふらと、ずぶぬれになって外に出た。
天を戴きながら、閃光を眺めた。
雷は神の化身であるともいう。
混沌のうちに一縷の光がみえた。まるで、己の胸中のような──。
天よ、我が願いに応えたまえ。
雨に打たれながら、王は感じた。
己は狂っている。
しかし、酔わなければ、己は崩壊する。
雷電が直撃したような感覚がその身に走った。その瞬間、耳の奥に音が轟々と流れ込む。
雷鳴と狂気の中で聞こえたのは、天からの答えだった。
──昭よ。王の子の王よ。
すでに、もっておるぞ。
言葉を持つからこそ、こうして思考できるのだぞ。
己を縛るのは己ぞ。
──昭よ。王の子の王よ。
発せよ。その言葉を。
己はすでにもっておるぞ。
内なる怒りを、音にするのだぞ。
なぜかこのとき、制御できないほどの感情が溢れ出た。一度も泣かなかった赤児が、一筋の涙を流して失神した。
その日以来、王は内に住みはじめた神と対話し始めた。
神との交信の時間は、日々増える。
──賢者をさがすのだぞ。
口がきけるようになるぞ。
その者は、王宮にはおらぬぞ。
そう。王宮にはおらぬ。
最も苦労と経験を重ねて、最も反省した魂こそ、賢者というべきものぞ。
王は神に問うた。
その者の名を──。
──わかる、ぞ。
説と呼ばれる者ぞ。
己の足でさがすのだぞ。
臣下に探させてはいかんぞ。
百年経っても見つからんぞ。
商王は、天の言葉に導かれながら、説という賢者をさがした。
ある邑を通り過ぎたとき、門番と出会った。
白髪の老人であった。
足を悪くしているのか、門の前で小さく座っている。
「己を縛るものは、己じゃ」
と老人は言った。
それは神の言葉と同じだった。
──あなたの名を。
問いたいのに、言葉は喉の奥で詰って出ない。
老人はまさしく賢なる者であった。皺だらけの顔を向け、王の仮面越しに、その瞳をまじまじと見た。
「わしは、説と申すものです」
王は目の前の人が求めていた人だと悟った。
「説」
黒い仮面から滴がしたたり落ちた。
王は生まれて初めて、言葉を発したのである。
「わしを必要とされておるのですな。いいでしょう。余生を貴方に捧げましょう」
説はひょこひょこと王に近寄り、その手を取った。
こうして、王は説を迎えた。
老人は王の師匠たる「傅」という意味をその名を冠し、以来、傅説と呼ばれる。
***
商には、上甲微という儀式がある。
天帝を祀る日。日蝕である。
その日、太陽が欠けた。
天文を読む巫祝が祝詞を唱える。
商王は、いつもは黒い衣服に仮面をかぶり、一言も話すことはない。
しかし、その日は違った。
太陽が欠けたとき、王が姿を現した。
髪も衣服も振り乱し、仮面を被らずに化粧を施している。
王は、まるで歌うようにさわやかな声を出した。
「月が太陽を食した。余もまた王を蝕した。ゆえに、余は生まれたのだぞ」
誰もが、「王はいよいよ狂った」と思った。
商を束ねる者としての重圧を一身に受け続けた結果である、と──。
それ以来、狂った王は、ときどき姿を現すようになった。
王のもう一人の人格は、こう呼ばれるようになる。──微王、と。
微王は次第に、商王を乗っ取るようになった。
微王は酒と色を好んだ。
なにも求めなかった商王と違い、微王はすべてを求める者であった。
商王は、微王となるときの記憶はない。
酒に負けたときのように、意識が飛ぶのである。
商王は困り果てた。
次第に、微王に生活を乱される。
ときには、身に覚えのない約束を結んでいることもある。
ときには、女人の腹の下で目覚めることもある。
早急に考えを伝え合う必要があった。
王は、記号を作った。
己に宿る微王に伝えるため、石版に図象を残す。
これが、文字の始まりであった。
文字による対話のなかで、二人は決めた。二人は性格は真逆だが、よく考えは合う。二人が導き出した答えは同じだった。
腐りきった商を、改める。
権力を我がものとする家臣を、断罪する。
在位三年。
絡み絡まった邪な者たちの利権をすべて切り落とす。
古い都から、新しい土地へ都を移す。
ある朝、刮目した商王はその意思を家臣に伝えた。
「我欲遷都」
地底から唸るような声であった。
「我欲替人」
その後は、権力を恣にしていた佞臣たちは追放し、断罪した。
こうして、邪臣たちは遠ざけられることとなった。
新しい都で、商王は、王室の強化に励んだ。
微王は自由気ままに過ごした。
微王は商王のために動いたが、祭事の最終的な決定権はすべて商王に帰した。
***
あるとき、微王は商の属邑へ訪れた。
好みの姫を探すためである。
商王はふと、起きた。
微王と意識を交代したのである。
商王は、属邑に居るのは、微王のいつもの気まぐれだろうと悟った。
都へ帰ろうとしたとき、若い女人が商王のもとを訪れた。
「妹を娶ると申されておりますが、お引き取り願えませんでしょうか」
──邑の姫だろうか。
黒髪に、白い肌。聡明そうに、輝く瞳。
──美しい。
「まあ。聞いているお方と違いますわ。勘違いしてしまったのかしら」
眼前の女性は、困惑した。
商王もまた、戸惑った。
その姫の瞳は、王がいままで感じたことのない、不思議な引力をもっている。
「言葉を、失っているのですね」
「是」
「あら。一言なら、しゃべることができるのですね」
姫は首を傾げた。
その仕草は、まるで花が風にそよぐような、愛らしさがあった。
「好邑は初めてでしょうか」
「是」
「わかりましたわ。貴方が、本物の商王なのですね──」
その姫は華のようであった。
商王は、好邑の姫と語らいたくて、好邑にしばらくとどまった。
──語らいたいけれど、語れない。
商王としては、懸命に言葉を紡いでいるつもりだった。
うまく姫に届いているか、自信はなかった。
しかし、言葉は交わさずとも、好邑の姫の隣をただ歩くだけで王の心は満たされた。
「ふふふ。言葉が少ないのも、慣れましたわ。謎解きみたいで、楽しいですわ」
姫を誘って、池のほとりを歩む。
ふたりの男女──黒い仮面の男と、白い肌の女が水面に映る。
姫は、池に映った王を撫でた。
「あなたは、とても弱いひとです。強くあろうとして、とても弱い……。しかしわたくしはそんな方は、嫌いではありません」
「姫」
商王は仮面を外して、好邑の姫の瞳を見つめた。
「なんでしょう」
「婦、好」




