贖罪の慟哭
狩りのあと、黄昏の空に十三夜の月は姿を現した。
月光に誘惑されるかのように、商王は唸りながらその場に踞る。
王は言葉にならない音を発して、悶えていた。
一瞬、王はぴたりと動かなくなった。
王は意識が戻ると、直立し、身体を反らせて伸びをする。頭上の冠をむしりとった。
「ふぅ、」
「夜の調べ。余の出番ぞ」
商王から、微王の人格に変わる。
微王は十三夜の月を背負うようにして佇んでいた。
微王はぐりんと首を捻って、目当ての者を探した。
彼は仮面と衣服を脱ぎ捨てながら、婦好とサクのもとへとまっすぐに歩みを進める。
王は身につけているものが邪魔だと言わんばかりに黒衣を捨てて、白い襦一枚となった。結い上げた髪をほどき振り乱す。
白い布越しに局部は猛る。
「十三夜。余はこの日をどんなに待ちわびたことか。余の想いをわかるものはおらぬぞ」
微王はサクの瞳を射抜きながら、頰の傷を指でなぞった。
「微王。あなたの気まぐれで、こちらも気が気ではない」
婦好がサクを引き寄せ、微王から引き離す。
微王は「ふ、ふ。気まぐれなどではない。これは宿命ぞ。儀式ぞ」と笑った。
「支度をしたい。宮殿の祭祀の間にて待つ」
***
婦好とサクは、身を清めたのち、祭祀のための部屋へ通された。
微王に、文字を献上する。
微王に気に入られる文字がなければ、サクの命はない。
化粧を済ませた微王が部屋に悠然と現れた。
微王の後ろにはなぜか弓臤の姿もあった。
弓臤はまるで、存在しないかのように、壁に背を預けている。
祭祀の間は、サク、婦好、微王、弓臤の四名で閉じられた。
炎が黄金の鼎に反射し、獣の紋様を鮮明に映す。
微王が身につけているのは、以前にサクが血で書いた文字。九十九字が書かれた反物で仕立てられた着物であった。サクの血文字は時間が経ち褐色となっている。
「この着物。今日のために、仕立てさせた、ぞ。よいであろ」
うっとりとしたまなざしで、サクの血で書いた文字を指でつ、つ、となぞる。
「さあ、待ちくたびれた、ぞ。巫祝の娘にして婦好の寵姫、サク。余に献じよ。余が求めしは女に関する文字百二十字。文字の種ぞ」
「こちらに」
サクは、微王に文字の入った瓶を献じた。
中には、牛骨百二十がある。
努力して創造した百二十字。
サクの命をつなぐ文字。
微王はそれを受け取るなり、祭壇の床にばらばらと撒いた。陶器製の瓶は微王の手から滑り落ち、音を立てて割れる。
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
「不可」
微王は、ぱき、ぱきと、ひとつひとつ骨を踏みしめてゆく。
微王は刮目してサクを視た。
「もっと、ないのか。たしかにどれも、良い文字ぞ。しかし優れすぎて気に入らない。余の満足する文字がなければ、そなたの命はないぞ。もっともっと我が血のたぎるような文字を、」
「ああ。余にはわかる、ぞ。こちらのほうが、よい、ぞ」
サクから奪うようにして不採用の瓶を取り上げた。
「あ……! そちらは、献ずるべきものではありません」
サクが止めに入る間もなく、微王は瓶をたたきつけた。
陶器の割れる音が響き、牛骨と瓶の欠片が床を彩る。
「ふふ、はははははは。楽しい、愉しい、ぞ」
微王はまるで子供が無邪気に楽しむように、文字のかけらを足で粉砕していく。
「ん」
「これと」
「これと」
「これ」
微王はまるで浜辺で貝を拾うように、三つのかけらを集めた。
「光り輝く三つの文字、ぞ」
「あっ! その三つは……」
微王の手の内にあるのは、以前にサクが朧げな意識のなかで作った三文字である。世に出してはいけないと判断したもの。
「その文字は、お許しください。なかったことに」
「なぜ。余は気に入った、ぞ」
「お返しください」
サクは、微王に駆け寄ろうとした。
婦好はサクを止めて、問う。
「サク、どうした? それはどんな文字なのだ」
「婦好さま。それは、……」
──逃れられない。
サクは静かに、答えた。
「ひとつは……夢、という文字です」
「夢?」
「巫女が、敵が眠りについている間に、人を呪うかたちです」
弓臤の語ったこと。キビの魂が、枕で呂鯤を苦しめているという噂。
『夢』とは睡眠中に巫女が現れる図象である。
「ふたつめは?」
「……薨」
「巫女が、敵の枕で、人を呪い殺すかたちです」
『薨』とは巫女による夢魔のなか『死』に至る図象である。
「みっつめは」
「……言いたくありません」
サクが拒否するや、微王が口を挟んだ。
「なぜだ。最もよく光っていて」
微王はその文字を月明かりに透かすように高く掲げ、うっとりとした。
「そう、命が宿っている、ぞ」
「この文字の意味は?」と婦好は問う。
「この文字は……」
「蔑、です」
「蔑」
「巫女を、……武器で、殴り……、」
サクはうつむく。
「その呪術を解く……かたちです」
サクの肩は震えた。
『蔑』とは巫女を斬りその呪力を無力化させる図象である。
──このような文字、許されるはずもない。
「サク。まさか……」
「はい、」
「キビの、姿か……」
「朦朧とした意識のなかで作ってしまいましたが、やはり、いけません。この文字はお返しください。死者をいたずらに貶めてしまいます。あの姿を、あの出来事を文字として残すなんて……!」
「余はわからぬ。わからぬ、ぞ。なぜ文字を殺そうとする? 余には、むしろ、この文字が悲鳴をあげているように思える、ぞ」
「悲鳴?」
「叫んでいる。余に殺されるくらいなら、そなたに使って欲しいと」
「……!」
「サク」
婦好はサクの後ろから手を回し、優しく肩を抱く。そして、耳元で語りかけた。
「この文字は、微王に献じよう」
「婦好さま」
「サク。これはキビの生きた証だ。わたしからも礼を言おう。たしかに、キビに見せれば二、三の嫌味は言うかもしれない。しかしこのようにサクが悩み、慕ってくれたことを知れば、キビも喜ぶだろう」
部屋の隅で壁に寄りかかりながら存在を消していた弓臤もまた、発言した。
「サク。俺も同意見だ。この図象は文字が存在する限り、永遠に残る。これほど名誉なことがあるか。さっさと王に献じてしまえばよい」
「弓臤さま……」
──はたして、己の命のために、この文字を献上して良いのだろうか。
図象を生みだすきっかけとなったキビは、はじめサクに対して意地悪な人だった。
反発し、衝突もした。
しかし、徐々に心を開いてくれた人だ。
嫌いだったけれど、好きだったのだ。
キビは死んだ。呂鯤によって酷い方法で殺された。その最期の姿から、想像するのも憚られるほどの凌辱を受けたであろうことが察せられる。
文字としてキビの姿を残す。それは、あの死を、女性の姿を、辱めることにならないか。やっていることは、キビを殺した呂鯤と大差ないのではないか。
──そうだ。もう、キビは居ない。そして、その原因は……。
内側から迫り上がる熱いものを、サクは、唇を噛んで、堪えた。
「どうした、サク」
「……申し訳ありません。あのとき、婦好さまはおっしゃいました。取り乱すなと、敵の狙いはこちらを乱すことだと。だから、取り乱しては、いけないのです。すこし、落ち着く時間をください」
「……まさか、サク。あのときから、ずっと、泣くのを耐えていたのか? 感情を、殺していたというのか」
「余にはわかるぞ、婦好。おまえの言葉によって、その娘はまだ、そのときから抜け出せずにおるぞ。そして傷つきたがっているのだぞ。誰かに罰して欲しかったのだぞ。だから、余が傷つけたのだぞ」
「サク……。そうだったのか。わたしは、まだ少女のそなたに、多くを背負わせてしまったようだ。サクであればと、どこかで安心していたのかもしれない」
婦好は、サクを引き寄せた。
豊かな胸にその頭を抱く。
サクは、婦好を受け入れた。
「婦好さま。わたしは、悔いています。あのとき、もっと別の行動をとっていたら。わたしがあと一日待っていれば……」
「それは、違う。サク。戦場では、真に未来を予測することはできぬ。ゆえに、起きてしまったことは取り返せない。天命を受け入れるしかないのだ」
サクの背を抱く婦好の手に力が入った。
「しかし、……すまなかった、サク。取り乱すなと言ったことで、わたしは知らずにサクを縛ってしまったようだ」
婦好の整った指先が、サクの髪を撫でる。
まるで、母が子を慈しむように──。
「泣くべき感情を殺すな、サク。哭くことは恥ずべきことではない。死者を弔う最高の礼儀だ」
「……婦好さま……」
「つらい思いをさせた」
「婦好、さま……」
「もう、泣いていいのだ。サク。ここには、おまえのほかには三人しかいない」
「……」
「哭きなさい、サク」
言霊に抑圧されていたサクの悲哀が、言祝ぎによって、一度に放たれる。
「っ、婦好さまっ……! うっ……キビさま、キビさまは、わたしの、身代わりに」
「サク、」
「身代わりに、なったのです、キビさまは、わたしなのです、この文字は、わたし自身の姿、なのです、」
「それは違う。キビは誰の代わりでもなかった。キビとして死んだ。サクも、誰の代わりでもない。そして、キビの命を文字に刻めるのは、サクだけだ」
「うっ……、キビさま、」
「サクにしかできないことだ。誇れ」
「ふっ……、う、」
「もし、サクが罪を感じるなら、わたしがすべて背負う。サク……、微王に、文字を献上しよう」
大粒の涙が、サクの頰をつたう。
まるで今日に至るまでの苦難が、乗り越えてきた苦痛が、すべて瞳から溢れ出るようであった。
婦好はただ、サクの名を呼びながら、その細い身体を抱きしめ続けた。
「さあ、サク」
「婦、好さま……」
「サク、文字を献上しても、よいな」
「は……い。王に、王に、文字を、……献上、いたします」
「我が少女の流した涙。我が戦士の流した血。微王よ。受け取れ!」
「婦好、さま……ひ、うっ、うあああん! わあああん!」
耐え忍んでいた想いが、溢れる。
婦好はその襟元が乱れるのを厭わずに、少女の背を抱きながら、とめどなく流れる涙を拭った。
サクは、声をあげて哭いた。それは婦好と出会ってから、初めてのことであった。
「嗚呼。余は、その涙を舐めとりたいぞ。婦好がいて手が出せないぞ」
微王は残念そうにしながらも、三つの文字の牛肩を手で握りつぶしてから、がりがりと齧り、飲みこんだ。
微王は、十三夜の月を戴く。
「薨」
「蔑」
「夢」
「余は、気に入った、ぞ」
「夜に、余は、世を、預言する」
「ひとつは、いずれ死ぬ文字、ぞ」
「ひとつは、人々に忌み嫌われる文字となる、ぞ」
「ひとつは、人々が憧れ、恋煩い、その生きる道を狂わす文字となる、ぞ」




