サクの初陣◇
婦好を追いかけていた敵兵たちは、あきらめたように速度を落とす。
戦車の、商と鬼方での性能の差が現れたのだ。
サクたちは婦好の陣営に帰還した。
陣営の門が閉まる。
追いかけていた敵の軍勢ははるか遠方だ。
「明朝、北の邑へ出撃する」
「承知しました」
帰るなり、翌日に備えたあわただしい出撃準備がはじまった。
新参者のサクの寝所などあてがわれるはずもなく、その晩は本当に婦好の寝所で寝ることになった。
サクは、己の身を案じた。
――己は、婦好という女傑に食べられてしまうのではないだろうか。
書斎にばかり篭っていたサクにとって、戦いのための野営地など初めての経験であった。
サクは、リツに行き方を教わって婦好の部屋へ向かった。
婦好の寝所は陣地の中のいちばんよい場所にある。
サクが婦好の部屋につくと、中央に触り心地のよさそうな寝台があった。
サクは寝台にはふれず、空いていた床に布をしいて座りこんだ。
王妃の部屋というのだから、派手な装飾がほどこされているものとサクは予想していた。
しかし、そこは白い布に囲まれた、飾り気のない部屋である。
簡素ではあるが素材の肌ざわりやや手入れはどれも一級品だ。
サクはしばらく床に仰向けになって天井をながめた。
特に仕事もない。
新参者の身としてはだれかの手伝いをしたほうがよいのではないかとサクは思いはじめた。しかし知り合いは婦好とリツ以外に誰もいない。
部屋の灯りを消すと、闇がひろがる。
サクは居心地の悪さを感じていた。
戦地でのはじめての夜にうまく眠ることができなかった。
ふいに、鼓の音が空に響いた。
静かだった夜が一転して慌ただしさにつつまれた。
「敵襲!」
鼓の音とともに、遠くで声が聞こえた。
サクが婦好の寝室から外へ出ると、北の空が赤く染まっていた。
煙の匂いが充満している。
門の一部が燃えているようだった。
瞬時に、サクは敵である鬼公の火攻めだと悟った。
外は炎のせいで明るい。
足元もよく見えた。
サクは婦好を探した。
婦好の姿は目立つ。
昼間とおなじ戦車に乗り、混乱する軍を指揮していた。
サクがふらふらと歩いていると、婦好と視線がぶつかった。
「乗れ!」
その呼び声にサクは夢中で婦好の戦車に飛び乗った。
婦好はサクの身体を支える。
「リツ。軍を二隊にわける。相手の虚を突くのだ。本陣防衛のうしろで敵本拠地奪還を目指す。おそらくいまなら敵の本陣も手薄であろう」
「承知しました」
「リツはこのままこの馬車にのり本陣に残れ。わたしの影として指揮をとるのだ。サクはわたしとともに別の馬車にのろう。精鋭三百で敵本陣へむかうぞ」
──凶。
サクは再び直感した。
サクはぼんやりとしている己を心のなかで叱咤した。
──いま、自分にできることは何か。
「婦好様、その策を占ってもよろしいでしょうか」
「かまわない。しかし、あまり時間はない」
サクが知り得るもっとも簡素な占いを試した。
結果は、凶。
「いま、敵の本陣へ突撃するのは危険です」
「危険は承知だ。戦で勝つための賭けだ」
「わたしが敵の鬼公なら、婦好様のその性格をよみ、本陣に罠をしかけます」
「なに?」
「占いの結果は、凶です。
婦好様のお考えでしかける夜襲ならともかく、今回は敵が招いたことです。相手は夜戦の用意をしているでしょう。
相手が寝ているのなら良いのですが、入念に準備をしている敵を暗闇に攻めるのは不利です。
相手の誘いにのって、みすみす敵の罠にかかってはいけません」
「では、どうする」
「まずは軍を立てなおし、奇襲隊を討ちはらうのが先です。朝陽がのぼってから総力で本陣を攻めればよろしいかと。そのほうが鬼公の裏をかけるはずです」
サクは夢中になって言葉を発していた。
しかし、最後まで言ったところで我にかえった。
王の妃を前に、不敬ではなかったか。
「あっ……、出過ぎた真似をいたしました」
「いや、そなたの言うとおりだ。
まずは奇襲隊をつぶし、本陣をたてなおす。そののち、あらためて敵陣を攻めよう。
まったく好みではない戦い方だが、そのほうがかえって鬼公を混乱できるかもしれない」
婦好の決断に対して、リツが諫めた。
「おまちください、婦好様。このものが鬼公と通じている可能性は」
リツの言葉に、婦好はサクをじっと見つめた。サクはただそれを見つめかえすしかなかった。
サクにやましい気持ちなど、ただのひとつもなかった。
「サクに勝敗を賭ける」
婦好は言いきった。リツは婦好の決断に、それ以上口をはさまなかった。
婦好は配下九隊をそれぞれ指揮した。
四隊を本陣の鎮火と修復にあて、五隊で敵の奇襲隊と戦う。
すべての隊に指令を伝達後、婦好率いる婦好隊も五隊とともに奇襲隊を討ちはらった。
奇襲隊の兵はそれほど多くはないようであった。
婦好率いる車馬隊が駆逐に向かうと、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。門もすぐに鎮火し、騒ぎは予想よりも早くおさまった。
やはり婦好軍をおびきよせる罠だったのだろうか、とサクは考えた。しかし確認する術はなかった。
婦好の馬車は、陣内を駆け回った。
今回一番被害のあったのは北門。
燃えた部分が炭となっていた。
敵か味方か、犠牲となったものも当然いた。
だれかが手際よく後始末をしている。
戦いとしては小さい規模だとは頭でわかっていた。
しかし、はじめてみる戦いの現実にサクは目眩を覚えた。
「サクの言うとおり、おそらく鬼公はわたしを誘うつもりだったのだろう。こんな夜は、朝まで寝てやるのが一番かもしれぬな。サクには明日もっと婦好軍のつよさを見せてやろう。明日もわたしのひだりに乗っておれ」
「はい」
サクはその場に立って、弱い心を気づかれないようにふるまうのがやっとだった。
婦好の言葉にリツが不満そうにぼやいた。
「こんな役立たず。婦好様のひだりは軍でいちばん強きものときまっているのに」
「ははは。たしかにサクは弱いな。わたしも二人分戦わねばならぬので、骨がおれる。しかし、サクほど稀有な存在はいない。ながき目で視れば、サクは重要な人材だ」
戦いの後処理がひととおり終わると、サクはふたたび婦好の寝室にいた。
ほかに居場所がなかったのだ。
婦好が短い軍議を終えて寝室に帰った。
床に座っていたサクは婦好にとらえられて寝台に運ばれた。なかなか寝つけないサクを横目に、婦好は朝までぐっすりと寝ていた。
◇
翌日、サクは目覚めた。
隣に寝ていたはずの婦好はいない。
サクは外に出て、朝靄の立ちこめる幕舎内を歩いた。
婦好は櫓の階段を降りていた。
「起きたか」
婦好の姿は朝陽に反射しているせいか、白さを纏っていてうまく視ることができない。
サクは、ふと『階』という文字を思い浮かべた。
『階』という文字の左側は、神がつかう梯子をあらわした形である。
誰もが圧倒されるたたずまいに、目の前にいる人物こそ『神』なのではないかとサクには思えた。
「この服を身につけよ。わたしの子どもの頃のものだが、ちょうどいいだろう。それほど袖も通していない」
サクは深い蒼色の衣を手渡された。
金糸の装飾が美しく輝く。
「こんなに良い服、わたしには畏れ多いです」
「これから神に戦勝を祷る。そなたのためではない。神への礼儀だ。急げ、時はあまりない」
「はい」
サクは急いで着ていた服を脱いで、青い衣を身につけた。
サクは婦好により陣内の簡易な神殿に連れてこられた。
祭壇には豚や桃、黄金に光る鼎や人面模様の斧などが並んでいた。
「これで占うのだ」
サクは婦好から亀の甲羅を受けとった。
亀の甲羅をつかっての占いは神と王への正式な記録となる。サクにとってはじめての経験である。
サクは身をただして、父から学んだ巫女の舞を踏んだ。
「貞う。鬼方を征することなからんか。下上の神、諾せざるか」
サクは神に問いかけた。そして亀の甲羅を火で炙った。
かちかち、という音とともに、亀の甲羅にひびがはいる。
「神は大いに亨る、と仰せです。戦いとしてはこのうえない結果。今日は婦好様のお考えのとおりになさるのがよろしいでしょう」
婦好は満足そうに笑みを浮かべた。
サクたちが祭祀をすませて外に出ると、幕舎内の人は少なくなっていた。婦好軍はすでに幕舎外のなだらかな丘の下方に陣を組んでいた。
「ゆこう」
サクは婦好の三人乗りの馬車のひだり側に乗せられた。
その日の婦好の馭者はラクという物静かな女性である。
婦好軍は左軍、中軍、右軍にそれぞれ三隊ずつ編成されている。サクはラクの馬車で、婦好とともに中軍まで移動をした。陣の中央では、リツが別の馬車に乗っていた。
婦好軍には車馬三百はあるだろうか。
歩兵は二千余。隊ごとに特色がある。とくにサクの目をひいたのは、目のふちにくまどりを施した女性だ。
サクにはまだどの隊がどんな役目を負っているのか、まったくわからなかった。
婦好軍は女だけの軍と聞いていたが、実際に、男の影はなかった。
「わたしは罪人としてこちらに参りました。みなさまは、なぜここで戦っているのでしょうか」
「そうか。サクは知らなかったのか。
神に仕えるために各家から集められた斎女を、わたしが訓練している。
なかにはサクのような罪人、それから異民族から集めた奴隷などの例外もいるが。
ここにいるのはみな、神につかえるおんな。巫女だ」
「神に仕える、巫女の軍」
サクは思わず声にだして、現実を咀嚼した。