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田猟の儀

 商王は朝に占い、狩りの結果が出れば、吉とでた方角に(みゆき)する。

 これは古来よりの慣例であり、儀式である。


 早朝から集められた商の権力者たちが、安陽の南、王の狩場に集結した。そこにはセイランや巫祝の長の姿もあった。


 みな、財力を誇示するかのように、派手な馬車や衣装で訪れる。婦好の馬車はその中でも簡素ではあるが、ただ婦好がいればそれだけで華やかに目立った。



「すごい……。こんなに朝早くから集まっていらっしゃるのですね」

「狩りは、祭事(まつりごと)の社交の場でもある。サクもともに挨拶へついてまいれ」


 サクは婦好とともに、要人に礼を行った。婦好は交友関係が広い。サクはその名と顔を覚えるのに必死だった。


 セイランが婦好をみつけてかけよる。


「あっ! 婦好ちん! こんにちはあ」


「セイランか。ひさしいな。例の、女だけという軍の整備は進んでいるのか」


「えへっ、まあまあ順調かな! あれ? こっちの子は、この前は倒れてた()だよね。こんにちは! わたしセイラン、婦井(ふせい)さまにお仕えしてるの。今度、女の子だけの軍をわたしも率いるんだっ! よろしくねえ!」


 セイランはサクの肩に手を置いた。

 とがった爪で、ぎりぎりと、サクの肩は締め上げられる。


「っ……! サクです……よろしく、お願いします」



「ね。これから商王がでてくるよん。商王が姿を見せるのは何日ぶりかなあ。楽しみ!」

 セイランが、ぴょんぴょん跳ねながら商王の到着を待った。


 派手な馬車が三台現れた。

 一段高く、屋根付きの最も煌びやかな馬車に、商王はいた。


 商王の衣装は全身が黒く、宝石を無数に垂らした冠と、仮面を被る。馬車に取り付けられた玉座に座っている。


「きゃああ、商王さまっ!」歓声とともにセイランもまた叫ぶ。



 ──あれが、商王。

 微王をひとりの人格として内包する、大邑商の王。


 仮面の下で表情は見えない。

 全身から重たい気を纏ったその人は、人々を畏怖させる威圧感がある。


 巫祝の長が高らかに宣言した。



「最も大きい獲物を天に捧げよ。その者が望むものを与えん、と商王は仰せである」



 その言葉に、セイランは反応した。


「わあ! いちばん大きな獲物を狩ったひとの願いをなんでも叶えてくれるんだって! 絶対に負けないからね、婦好ちん」


「ははは、意気込んでるな、セイラン。王の狩の場はわたしもひさしぶりでな、負けるわけにはいかない」


「ふうん。あたしね。王様におねだりするんだ。戦で婦好ちんよりも武功をあげるために、車馬百乗をお願いしにきたの!」


「それは良い。車馬百乗。セイラン軍も強くなれるというものだ」



 商王は、全く言葉を発せずに、腰を重々しくあげて、むんずと大弓を掴んだ。

 ぎりぎりと、大弓を引いて天に向かって放つ。

 矢は蒼天を射抜いて空に消えた。



(ゆけ)



 その声は、大地の底から響くようであった。



「合図だ、ゆくぞ!」

「あっ! 待ってよ、婦好ちん! わたしもいくぅ!」


 婦好の馬車に続き、セイランも続いた。


 普段は人の往来のない林を駆ける。そこは(けもの)住処(すみか)であった。車輪が通れる道は少ないが、馭者のラクが手練れの技で踏破していく。


「わわっ! と、と……。ん。もう、速い!婦好ちんたら!」


 セイランの馬車はその速さに苦心しながらもついてくる。


 しばらく走ったところで、婦好が弓に矢を宛てがい、獲物に狙いをさだめた。

 ぎりぎりと、弓のしなる音が響き、ひゅ、と矢が放たれる。


 (やじり)は直線描いて小動物の腹を貫いた。


 サクはため息をつく。

(うさぎ)を一矢で捕えるなんて、婦好さまはさすがです」


「いや……、戦場から遠ざかっていたゆえ、すこし、感覚が鈍っているな」と婦好は肩を回した。



 馭者のラクが近寄って獲物を馬車に積む。


「次は、鹿を追うぞ」と婦好は揚々と言った。



「えへへへーん。あたしも婦好ちんについていくもんね」

 そう言って馬車を並走させたのは、セイランである。


「セイランよ、別方向で探したらどうだ?」

「えーっ! 一緒に探そ?」


 セイランもまた弓を構え、矢を放つ。

 その矢は、サクの左肩近くの空を切り、草花の中へと消えた。



「セイラン! 気をつけよ!」

 と婦好は叱咤した。


「あーん、ごめんなさい! そこに獲物がいたみたいでっ! てへっ!」



 サクはセイランを無視して、進言した。

「婦好さま。おそらく動物たちも、こちらの動きを観察しております。みなさまの狩りの方向に、もはや獲物はおりません。敢えて進行方向を変えましょう」


「そうだな。ラク、サクの言どおりの方向へ進めよ」



 回り込むように進路をかえると、逃げ惑う鹿をみつけた。


 婦好が鹿を射る。

 矢が急所に当たると同時に、セイランの矢も臀部に刺さった。


「わあい、当たった! ねえねえ、婦好ちん。この鹿さん、わたしにちょーだい?」

 

「婦好さまが先に、急所を射た鹿でございますれば……」とサクが言うと、

「サク、よい。欲しいと言うのだ、この獲物はやろう」と婦好は答える。


「やった!」

 セイランは歓喜した。


 サクは問う。

「セイランさまは他人が得た獲物を受け取って、嬉しいものでしょうか」

「もっちろん!」

 セイランは破顔した。


 ──戦果の横取りをするとは。

 サクは、このセイランという女性との価値観の隔たりに、少しばかりの恐れを抱いた。


 セイランは自身の馬車に獲物を積んだ。少しばかり車体に重さが増す。


 ──重さを増した馬車なら、おそらく、引き離すことができる。



「ラクさま。セイランさまを振り切りましょう。馬術の差を見せつけてください」

 サクの(ささや)きに、馭者のラクは微笑した。



 馭者のラクは婦好軍一の馬の使い手である。出発するや、まるで自在に操るかのように、馬を加速させた。


「えっ? まってよぉ、婦好ちん!」


「セイラン! 軍を率いるとは、孤独との戦いだ。常に誰かの後についてはいけない。自身の足で戦うのだ」


「説教はいらないよお。すぐに追いつくんだから!」


 セイランの馬車も加速する。


 突如、馭者のラクは、馬を半転させた。


「へっ?」


 婦好の馬車はセイランの馬車と別方向へ向かう。

 馬は急に行き先を変えることはできない。

 セイランの馬車は婦好の馬車のように曲がることができず、加速したまま正面を進み続ける。


 馭者のラクの、馬との信頼関係、馬車の性能、なにより馬術が成せる技であった。


「あーん! 逃げるなんて、ずるいぃぃい!」





 セイランを撒いたところで、サクは少しばかり焦った。

 なかなか良い獲物を見つけることができない。


 ──婦好さまは、少し呑気なところがある。

 余裕というべきか。

 婦好は悠々とした面持ちで狩りを楽しんでいた。



「婦好さま。このあたりで、狙うべき最も大きい獲物はなんでしょうか」

「最上級は鹿。しかも、群を統率する雄鹿だ。サク、楽しいか」

「楽しいかと問われると、わかりません」

「そうか。残念だ。楽しむことこそ、天帝の意思に近づけるというものだ」



 サクは辺りを見回した。

 進行方向に木々が鬱蒼と茂った小高い山がある。


 群を統率する雄鹿。

 ──もし、いま隣にいる婦好が鹿ならば。

 人間に立ち向かうに違いない。

 しかし、それは愚策だ。

 むしろ気高い山の主ならば、高台から人間を一望するだろう。


「サク、なにを考えている?」

「いえ。鹿を婦好さまになぞらえて考えておりました」

「あははは! サクの中でわたしは鹿になったか」

「ラクさま、山の方向へ馬車を進めてください。山を登りましょう。そこに、おそらく群を率いる雄鹿がおります」


「サクは真面目だな。考え方がまるで戦場だ。狩りは神の遊びだ。もっと肩の力を抜け」

「負けられぬ戦いとあれば。……婦好さまは安陽に来てから、なんだか子供っぽくなりました」

「あはは! サクは手厳しい。しかし、そう感じるのであれば、サクが成長した証でもある」

「そうでしょうか」



 小高い山の道を馬車が分け入る。

 木々の根に、車輪がもつれてうまく進むことができない。


「これ以上は、馬車では行けません」

 と、馭者のラクが言う。


 サクの思惑に反して、山では群を統率する鹿と出会えなかった。

「そうですか……、引き返しましょう」


 引き返そうとした、その時である。


 野鳥が一斉に飛び立ち、馬が嘶いた。

 小さな動物が、視線の先の方向から逃げ駆ける。


 森につかの間の静寂が訪れた。



 婦好は指を口に当てて、ふたりを制止させた。

「姿勢を低くせよ。静かに」

 


 婦好はしばらく(くさむら)を見つめて馬車から降りる。


 婦好の真剣な横顔に、サクも察した。

 ──なにかが、いる。


 婦好は、愛用の武器である、人面柄の(えつ)を構えた。



 ざ、ざ、と茂みが揺れる。


 それは一瞬の出来事だった。


 現れたるは獣。

 鋭鋒の牙。

 爛々とした瞳。

 まるで祭祀の(かなえ)に記されたような、禍々しい模様。



 虎である。



「婦好さま!」



 獰猛な獣は三人の馬車を襲った。





 ***






「あれ? 婦好ちんは?」


 狩りを終えた参加者たちが、その獲物の大きさを競うべく、王のもとへ戻っていた。


「婦好さまがまだお戻りにならないようだな」と巫祝の長が問うと、セイランは言った。

「はい! 婦好ちんは、まだ戻ってません!」



 セイランはあたりを見回した。

 山のほうから、悠々と帰還する婦好の姿があった。

「あ! 婦好ちん!」


 婦好の馬車の背には、縄でくくられた黄色い縞模様の巨躯がずりずりと引きずられていた。


「婦好ちん、ええっ? なにそれ、虎?」


「わたしの獲物だ。なにせ持ち帰るのに、重くてな。手間取ってしまった」


 祭壇の前に、婦好の馬車が到着した。


 大の男三人がかりで虎の遺骸を運ぶ。

 虎の腹部には、婦好の(えつ)が両断した痕が残っていた。


 祭壇に獲物が並べられた。

 どの供物が一番かは、誰の目にも明らかであった。


 集まった者たちはみな、巫祝の長の言葉に耳を傾ける。

 巫祝の長が、今回の狩りで最も大きい獲物を仕留めた者の名を高らかに呼ぶ。


「商王のお言葉を代弁しましょう。

 神を最も喜ばせたのは、王の妃、商直属の将軍、婦好さまである」


 その言葉に、各方面から賞賛の声が上がった。


「さあ、婦好さま。お望みを商王に申してください」

と、巫祝の長が問いかけた。


「望み……か。そんなものはない」


「ない、とは……」


「わたしの望みは、わたし自身で叶える。しかし」


「敢えて、商王に申し上げよう。

 みな、己だけの努力ではままならぬこともあろう。

 ときには、命すら天運に託すこともある。

 商王。

 わたしは、あなたとあなたの友人たる天帝()に望みましょう。

 費やした時の、報われることを!

 ここにいるものすべてに、安寧と平穏を! 

 商の領有に幸いあらんことを!」



 仮面の男、黒衣と宝石を纏う商王は、すっくと立った。

 商王は、まるで天を奉戴するように両手を広げて叫ぶ。


 ──「(ダク)」──と。



 婦好の望みに、商王は応じた。

 婦好の紅の上衣が、歓声を受けて風に揺れる。



『命すら天運に託すこともある』

『費やした時の、報われること』

 今夜が、約束の十三夜。

 サクは、己に向けた言葉だと察した。



 婦好とセイランが射た鹿は、第四位であった。


「あーん、負けちゃった。くやしいぃい! それにしても、もう。もったいない! なんにも望まないなんて! 婦好ちんは欲がないんだから」


「セイランは確か、車馬を欲していたな。セイラン。車馬二百乗をわたしから与えよう」


「へ? いいの?? なにそれうれしーっ……って……、そんなわけないじゃん! 戦力を敵に送るの? それほど余裕なわけ? かえってむかつくんですけどぉ」


「敵? そなたとわたしは味方だろう? 味方の戦力を増やすことに、なんの不利益がある? それに、車馬を増やしたところで上手く扱う者がいなければ強くはなれぬ。今日のようにな。数日で強くなれるのであれば、苦労はしていない。訓練を積め、セイラン。わたしより武功をあげるのであろう?」


「きいいぃぃ! ますますくやしいぃぃ!

 次は絶対に負けないんだから!」



 セイランは悔しがり、足を踏みならした。

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