道を説くもの
サクは傅説と弓臤に続いて、樹幹のつづく回廊を歩んだ。
史官の屋敷は大木に寄りかかるようである。木々の間に建材を埋めて造られた建物。幾年も佇んでいたであろう木肌が悠久のときを語っていた。
王宮とはまた違う神秘性に包まれている。
「『史』とは過去から学び、今を生きることに他ならぬ」
いく筋もの皺をもつ傅説が、その顔と同じ色の樹皮を撫でながら言った。
「個人の感情を交えてはいけない。ひとり、間違いを伝えれば、百年ののちには真実になってしまう。慎重に、客観的に。『史』を言葉としてのせるときには事実のみを発せよ」
傅説よりの『史』に対する心得。
弓臤は、この伝授を受けてこそ完成するものだと言う。
「人の記憶に頼る『史』には、どうしても間違いはある。ときには『史』を疑うがよい。過去を疑い、正していくのもまた『史』じゃ」
「承知しました」
「ここで、『史』を伝える者としての天命を誓うが良い。商の祖霊に誓うのじゃ。真実の『史』以外は語り伝えぬと」
サクははっと、この屋敷に足を踏み入れることの責任と、重大さを認識した。
──わたしは、『史』を後世に伝える存在になるのか。
サクは『史』を学びにきたものの、『史』を伝えることを決めているわけではない。
それに、次の十三夜ののちの命さえわからない。
率直なところを口にした。
「わたしは『史』を知りたくてここに来ました。しかし『史』を伝える存在になるには、まだ覚悟が足りないと自負しています。もし覚悟ができたときには、真実のみを伝えることをお誓いいたしましょう」
サクの言葉に、傅説はすべてを見通すように答えた。
「ほっほっ、正直じゃの。よい、よい。さてさて、お嬢さんには、なんの話がいいかの。『史』のさらなる伝授でも良いが……。お嬢さんがその身に特に身につけるべきは、軍略か」
てくてくと歩きながら喋っていた傅説が、ぴたりと歩を止めて言った。
「最善の計略はなんじゃの」
「最善の計略……ですか」
サクは傅説の言を繰り返し、婦好の行動を思い浮かべた。
「戦わずに、敵との利害を一致させて、取り込むことでしょうか」
「ふむふむ。よいよい。百年の計の初歩は、戦わずして勝つことじゃ」
「戦わずして勝つ……」
「勝つかどうか。命運の差配は、戦う前から始まっておるものじゃ。
最善は、事前に敵の意図を見破り封じる、いわば外交交渉じゃな。次善は敵を同盟関係から孤立させること。第三は武器を交えることじゃ。最初から戦いありきの行動は、愚かな行動じゃの」
「最も良くない戦いとは、どのようなものでしょうか」
「一番良くないのは、城攻めじゃな」
たしかに、沚馘を襲った土方と鬼方は驚くほどに戦果は少ない。彼らはいったい何を得たというのだろうか。
傅説の軍略の教義は続く。
父以外の師を持たないサクにとっては、貴重な時間である。
「巫祝の娘、サクよ。変化・変革を恐れるでない。遠く、遠く。大局を見よ。血を流すことなく勝つのじゃ。わしから言えるのは、そのくらいじゃな」
傅説が手を広げながら、悠々と説く。
弓臤が傅説の言葉に楯突いた。
「師は甘い。俺からも言うことがある。さきほどの用兵。俺はお前に忠告する」
弓臤はサクに迫った。
「なんでしょう」
「お前、このままでは、いつか婦好を失うぞ」
サクは考えたこともない言葉に戸惑いを覚えた。
──婦好さまを、失う?
「さきほどの兄弟子との戦いでみせたような用兵は、改めたほうが良い。お前は婦好を神かなにかと思っているふしがある。幸運だけでは、戦には勝てぬ。確かに婦好は強い。しかし窮地に陥れれば危うい。守られることばかり考えるな。膂力がないならば、主人を知恵で守れ」
サクは胸を突かれた思いがした。サクにはどこか、『婦好は危機に陥るわけはない』と考えてしまうところがある。
「……覚えておきます」
「ほ、ほ、確かに弓臤の言うとおりじゃの。いやはや。しかし、今日の話は忘れるがよい。ただ与えられた知識など、何ひとつとして身にはつかぬ。己で考え、咀嚼し、苦しみ悩んでこそ、その後の行動の糧となるものじゃ」
その後も、傅説による問答は続いた。
傅説の言説はこの世の真理、人の生きる道にまで及ぶ。
しかしながら、サクが知りたかった『史』──女に関する文字を作るための情報はほとんど得られなかった。
──『史』も軍略も、現状は男性のものだ。
充実感と軽い失望に揺れる心を抱えたまま、サクと弓臤は史官の屋敷を後にした。
***
サクが屋敷に戻ると、父の南が出迎えた。
「おかえり」
「お父さま、戻りました」
「俺はここで失礼する」
立ち去ろうとした弓臤の腕を南が掴む。
「弓臤。息子とは、食事をともにするものだ。人に頼んで用意させたから、食べてゆきなさい」
弓臤はすこし困惑した。
サクもまた、引き留めるようにしてもう片方の手首を握る。
「どうぞ。ご一緒しましょう」
サクは陶器に作り置きされていた羊肉と豆の羹を三人分用意した。
弓臤は落ち着かない様子で、足を揺すった。
「誰かとともに食事をとるのは苦手だ。やはり、退散しよう」
「もう用意してしまいました」
サクが弓臤の眼前に食事を運ぶと、彼は観念したようにため息をついた。
その様子に父は微笑を浮かべた。
「さあ、いただこうか。そういえば、弓臤の本当のご家族については、まだ聞いていなかったな」
「俺にそんなものはない」
彼は言うなり、一気に羊肉を口に流し込んだ。
「幼き頃、俺は養父に拾われた。売るために、生かされたのだ。家族というものには全く縁がない。だからこそ勝手きままに生きている」
「そうだったのか。つらいこともあっただろう」
南がごく自然な仕草で弓臤の杯を用意し、酒を注ぐ。
「つらくなどはない。それが普通だからな」
「売られた、とのことですが、弓臤さまはその後どちらで過ごされたのですか」とサクも問うた。
「なぜ、そんなことを聞く。俺は言いたくなどはない」
愛想のかけらもない弓臤の回答に、失礼な質問だったかとサクは思う。
──しかし。
婦好と出会わなければ、弓臤と義兄妹にはならなかった。父は知らないことだが、サクは過去に弓臤に殺されかけている。こうして家族として食事を共にしているのは、不思議なものだ。
「失礼でしたのなら、申し訳ありません。わたしは義兄のことを知りたいと思います。成り行きとはいえ、こうしてご縁があったのです」
「その通りだ。お前は私の息子だ。ここには、いつでも、帰ってきていいのだぞ」
弓臤のただひとつだけの瞳がすこし揺らいだのを、サクは目にした。
サクは、直感した。
──偽りの、もろい、嘘の家族であるが、大切にすることで何かが変わるかもしれない。
サクは思わず口にした。
「弓臤さま。もしわたしが微王に殺されたときは、父を、お願いします」
その晩、サクは微王に捧げる百二十字を完成させた。
約束の日の前夜、サクは月に願った。
微王が気に入った文字がなければ、サクは殺されることとなる。
──死ぬことが怖くないといえば、嘘になる。
サクは婦好と出会って以来、多くの死をその瞳に映した。
戦いの末に命を散らした者。
犠牲として死んでいった第八隊の女性たち。
呂鯤に撲殺されたキビ。
己もまた何度も殺されかけて、いまも死と隣り合わせである。
──わたしにとっての、最高の死とはなにか。
目を閉じれば、乙女たちの最期が蘇る。
もし、死ぬならば、微王の気まぐれなどではなく。
──婦好さまのために死にたい。だから、生きねばならない。
百二十字は厳選した。これらの文字はきっと己の気持ちに応えてくれるだろうと、サクは確信している。
ほのかな緊張と覚悟を抱きながら、サクは眠りについた。
***
「サク、起きよ」
誰かに起こされて目を開けると、そこには婦好の顔があった。
「サク、商王に狩りに誘われた。これからゆくぞ」
「婦好さま? いまからでしょうか」
サクは寝起きの目をこする。
「そうだ。支度せよ」
ここは婦好の屋敷ではない。
巫祝の仮宿であり、戸は内側から閉めている。
先に起きた父が婦好を招き入れたのだろうか。
「サクの着替えも持ってきた」
婦好はもっていた上質の藍色の衣を、寝台の上に置いた。
サクは寝間着をあっという間に脱がされそうになり、あわてて抵抗する。
「自分で、脱げます」
サクの着替える姿を、婦好は寝台に腰掛けながら見ていた。
「帯か髪を結おう。帯か髪か手伝いはどちらが良い」
「髪で、お願いします……」
サクの主はひさしぶりに再会したはずなのに、遠慮もない。
婦好の形の良い指先が、サクの髪を弄る。
ときどき、首元に触れる体温がこそばゆい。
サクは気恥ずかしさを隠すようにして、婦好に告げた。
「今日が微王との約束の十三夜です。文字の入った瓶を持って行きます」
「そうだったな。これと、これか。ラクに持たせよう」
「あっ、そちらは不採用のほうです。置いて行きます」
「あとで選べばよいだろう。とにかく、狩りの朝は早い。急ぐぞ」
久しぶりに直面する、サクの主人の強引さ。
──婦好さまは、まるで風に舞う炎のようである。
婦好の小脇に軽々と抱えられるようにして、サクは家を出た。




