学友、弓臤
その日、婦好が訪れて父と対談した。
──なにを話したのだろう。
サクはふたりの会話に入ることは許されなかった。
翌朝、サクは婦好の屋敷から父の屋敷へと移った。
巫祝十氏族は、巫祝の長のほかは十年のうちに三年のみ都で過ごす。任期のために建てられた仮の宿である。
巫祝十氏族の仮宿は、占いのための部屋が設けられている。誰かに聞かれる心配がない。
弓臤は早朝から日暮れまでこの屋敷に通った。
まずは父たる南が弓臤に『文字』を教え、『史』を弓臤が教える。
「サクも、改めてわたしから文字を学びなさい。女に関する文字、百二十文字を作るのは容易なことではない。それに、微王の狂気を甘くみてはいけない。おそらく、気に入る文字が一文字もなければ、なにをされるかわからぬ」
「そうだな。微王については、俺も同意見だ」
サクの父の言に、弓臤も同意した。
弓臤による『史』の講義が始まった。
「義妹よ。『史』は最速で覚えよ。そうすれば、俺の師に会わせてやる」
弓臤は、伸びやかに『史』を吟じる。
混沌の世の説明からはじまり、商の生まれるところを問う。
弓臤は普段の態度と想像もつかない姿をみせた。
サクの父も弓臤の奏でる詠唱を恍惚の表情で聴いた。その横顔もまた決して娘には見せないものであった。
サクは『史』を、声による反復で繰り返し記憶する。
弓臤もまた文字を覚えた。彼は習得がはやい。二度、地に文字を書くだけで記憶してしまう。しかし文字は膨大だ。まだまだ時間はかかるだろう。
サクはさらに、文字を創造する。
この時点で、サクがつくった文字は八十余字。
思いついた文字は、黒曜石で牛骨に刻む。
これを百二十以上つくり、後から選別すればいい。
「そういえば」
詠唱の合間に、弓臤が思い出したように話し出した。
「お前には言っていなかったな。土方の呂鯤が、死の淵にいるらしい」
「どういうことでしょう」
──呂鯤。先の戦いでの土方の総大将。
その片腕を婦好が切り落としたが、逃がしてしまった。
キビの仇でもある。
「噂だと、毎夜、枕に女人が現れては呂鯤を苦しめるということだ。枕元にたつのは決まって、狐顔の女人だそうだ。呂鯤は狂いだしている」
──キビさま。
その最後が脳裏に再現され、サクの心が深く痛む。
「巷では、婦好軍の呪いと言われているぞ」
「婦好軍の呪い?」
「お前が意図せずとも、皆にはそう思われている。巫女は呪力をもち、婦好軍と戦うと呪いをうける、と」
「そのようなことは、いたしません」
「それで、どうなのだ。巫女は死ぬときに呪いをかけるのか」
「それは……わかりません」
***
サクは朝に『史』を覚え、夕に『文字』を創る。
父と弓臤の講義が終わったあとは、微王に命じられた『女に関する文字』のため、ひとり黙々と作業をした。
弓臤でさえ数日では覚えられないほどに、すでに多くの文字がある。
さらに創造せよというのだから、難題である。
サクの目の前には、いまだ彫られていない牛骨が並べられていた。
サクの考えから生み出される文字は、玉石混合。すべてが微王に献ずるに値するものではない。
不採用の文字は、専用の瓶に捨てていた。
牛骨の前で、サクは頭を抱えた。
弓臤の詠ずる『史』は、男性の視点で語られていた。女性はほとんど出てこない。
『史』に女性が登場するのは、子を出産したときくらいだ。
サクの思惑に反して、『史』は女に関する文字をつくる助けとはならなかった。
むしろ『史』を覚えなくては、という焦りもまた、サクを悩ませていた。
──呂鯤。
キビをほしいままにし、辱め、屠った敵。
今は、とりつかれたように、苦しんでいるという。
──巫女は死ぬときに呪いをかけるのか──
弓臤の声が脳裏を駆けめぐる。
古来より、女は神秘の存在である。
この世で、子を産む人間は女しかいない。
では、女は呪力を持つような存在なのか。
サク自身は、女が特別に霊的な魔力を持っているなどとは思ってはいない。
それよりも、恐るべき魔力とは、人を動かすことではないか。とすれば、問われるのは人間としてどう行動するかである。男女は関係ない。それは婦好をみて感じる。
一方、サクは神秘的な霊力もこの世にはあるとは考えている。現にサクは神と交信するといわれる占いも行なっているのだ。
サクは思考の定まらない、ぼおっとした頭で目の前の牛骨を彫った。
──呂鯤は、キビさまの呪いを受けたのだろうか。
考えがまとまらない。不明瞭な視界のなかに放り出されたようだ。
まるで、呂鯤の襲撃を受けた、雨の日のように──
漠然とした意識の中で、牛骨に形を彫りだしてゆく。
巫女が、寝ている敵を呪う形。
巫女が、寝ている敵を呪い殺す形。
──そして、
敵が、巫女を殴打し、その呪いを解く形──。
三つを彫ったところで、はっと、サクは息をのんだ。
これは、生み出してはいけない文字だ。
もし、万が一、後世に残してしまったら──。
震える手で、三つの骨は不採用の瓶に放った。
そのほかに、二十ほどの文字を生み出したところで、寝台に倒れ込んだ。
これで、微王に献ずると決めた文字は百字となる。
あと二十字。
達成は近い。
──婦好さまはどうしているか。
父と弓臤と学ぶうちに、婦好と会わない日は十日となっていた。
婦好の寝台をつつむ華の香りが、すでに懐かしくある。
──わたしは、利用されているのか。
サクはいますぐ婦好に、「そんなことない」と言って弓臤の言葉を否定してほしかった。
すこしばかりの距離が、サクの頭を冷やす。
──もし。
もし、百二十字が完成したなら、婦好さまに頭をやさしく撫でてほしいと思うのは、悪いことだろうか。
サクは布団に顔を埋める。
華の香りがしないことが、すこし寂しかった。




