偽りの家族
日が高くなる頃、父がサクへ願い出た。
「サク。婦好さまにお伝えしたいことがある。あとで、呼んでくれないか。話がしたい」
「わかりました。婦好さまには伝えておきます」
「それから、わたしを助けてくれた男……名は」
「弓臤さまのことですね」
「そうだ。弓臤だ。王のお気に入りで、よく見かけていた。『史』を知るものであったか。ただ寵愛されていたようにも見えたが……それなら、合点がゆく……」
サクの父は、独り言のようにつぶやく。
「弓臤との話は聞いていた。『史』と『文字』の交換と」
「聞こえていましたか」
このときになって、サクはやっと気がついた。
弓臤は、サクの父に聞こえるようにわざと地下牢の階段で取引きを持ちかけたのだ。
「サク。『史』を学びなさい」
父は力強く、まるで命じるかのように言葉を発する。
「『史』は、私も知らぬことなのだ。かの男が、瞳をつぶすのもわかる。商においては、誰もが知りたくても知ることができないものだ。『史』を学ぶことは、いずれ武器になる」
「いずれ、武器に……」
「しかし、かの男が瞳をつぶしてまで得たことを、おまえに無傷で与えるわけにはいかない。おまえにも、持つものを失ってもらう。巫祝としての家督継承権を、かの男に与える。それでも、よいか」
「わたしは、婦好さまに仕えると決めたときから、死んだものと思っております。いっこうに、構いません」
「では、弓臤とも話そう。のちほど、呼んでほしい」
「お父様」
サクは姿勢を父へ向き直し、父の眼差しを正面から捉えた。
「わたしはもう、子どもではありません。誰かに命じられてではなく、自身で決断をしたいのです。改めて、父上に申し上げます」
「微王に、新たに百二十の『文字』を作れと命じられております」
「微王に? 百二十の『文字』?」
「はい。しかも、女に関する『文字』、と限定されています。期限は、次の次の十三夜の日まで。成さなければ私の命はありません。ですが、未だできおりません。
『史』を学べば、考えの助けになるのではないかと思うのがひとつ」
「もうひとつは、私は、婦好さまのお役に立ちたいのです」
胸の内にある婦好への想いは、うまく伝えられないだろう。心中を渦巻く感情が、主従関係によるものなのか。憧れなのか。サクにはまだわからない。
ただ、今は父に本心を打ち明けるのはやめようと決めた。
「『史』を学ぶために、『文字』と『史』とを交換することをお許しください」
「そうだったか」
サクの父は、目を閉じた。
「子の決断を、親は殺してはならない。もちろん。許そう」
***
家人へ伝言を頼み、ほどなくして訪れたのは弓臤だった。
「来たぞ」
「弓臤さま、早かったですね」
「今日は暇だからな。なに、そのへんをぶらぶらしていただけだ。それで、話とはなんだ」
「先の取引の件です」
「ほう」
「秘匿の交換をお願いします」
「くく……決断が早いな」
「サクの父、南です。先日はお助けいただきありがとうございました。今回の取引については、もちろん無条件ではありません。むしろ、巫祝十氏族の面々に対しても、文句のでないような形で、取引いたしましょう」
「つまり? どういうことだ?」
「サクの兄、もしくはサクの夫になっていただきたいのです」
「は?」
弓臤はその右眼を丸くした。
「お父様? なにをおっしゃるのですか」
サクもまた動揺した。
「わたしの義理の息子になっていただきたいのです。そうすれば、巫祝十氏族という組織としても、文句はないでしょう。どちらでも、好きな方をお選び下さい」
「聞いておりませぬ」
「サクには、家督継承権を譲れと言ったはずだ。巫祝十氏族の外に『文字』を教えるとうるさい。それは今回の件でよくわかったであろう。わたしには、子はサクだけだ。どうせわたしの代で断絶する。その後は、弓臤が決めればいい」
父は声を低くしてサクへ申し伝える。
「弓臤は、『史』を知るために眼をつぶした。サク。お前は『史』を知るために何を失う? それとも、名が惜しいか」
「ですが……いくらなんでも」
名ばかりとはいえ、婦好が知ったらどんな反応をするだろうか。
弓臤がくっくっと笑った。
「くくく……。最高におもしろい親子だな。ええ。願ってもない機会です。あなたの息子になりましょう。そして、サクの兄に。ご存知かどうか知りませんが、俺はすでに男ではないのでね。後継は望めない」
「弓臤よ。やはり、そうなのか。噂には聞いていたが……。
よい。我が一族は血縁関係に縛られないものとして『文字』を伝えてゆけばよい」
「息子としてくれたからには明かしましょう。俺は王に取り入るために男を捨て、『史』を学ぶために片眼を捨てた。自分で言うのもおかしな話だが、俺のことはあまり信用しないほうがいい。しかし、いただけるものはいただいておきましょう」
「一度は救われた命。親は子のすることに口出しすることはできない。望むことはただひとつ。息子よ。サクを頼んだぞ」
「俺に可能な範囲で」




