父と娘
弓臤の言に、サクは動揺した。
「なぜ、いま、そのような話をなされるのですか」
「なぜだろうな」
弓臤の無愛想な回答だけが、闇に響く。
『文字』と『史』の交換。
どの行動が最善なのか。わからない。
『婦好に利用されている』という口舌。
反論はできなかった。
一段、また一段と、段を下るごとに、父との再会も近づいてくる。
──いまは、父の生死だけを考えたい。
時折、弓臤の咳払いが聞こえる以外は、暗がりに沈黙のときが流れる。
やがて、下へと続く段差が失われた。たどり着いたのは最下の土である。
サクは硬く乾いたものを踏んだ。動物の骨か。砕けて粉々になる。
──父は、このような場所にいるのか。いったい、何日。
サクにはなにも見えない。しかし、わずかに人の気配がある。
「いたぞ」
弓臤がサクを引き寄せる。
弓臤に手を引かれて、サクは誰かの髪に触れた。自分に似た、長く、まっすぐな髪。
「お父様……?」
身体の主は、ぐったりと倒れている。
「お父様!」
サクはそう呼びかけてから、父の髪に、顔に、身体を包み込むように撫でた。
手のひらの感触から、懐かしくも、よく見知った形が浮かび上がる。
冷たいけれど、あたたかい。
肌から伝わる体温に、サクは安堵した。
「お父様。お迎えにきました」
「サ……、ク」
──聞きなれた、自分の名を呼ぶ懐かしい声。
父は、疲弊しているのだろう。
それ以上、しゃべることができなかった。
風のとおらない地下牢。まるで、死者の墓である。おそらく、水も食料も人が死なない最低限を投げ込まれていたのであろう。
サクが想像していたよりも、過酷な環境がここにはあった。
父に会えない間に起こった出来事。告げたいことはたくさんある。しかし、今はまだ言えない。この場から、助けださねば。
──父は、生きている。
もう会えないかと思っていた唯一の肉親。
その奇跡に感謝した。
「おい、手伝え」
弓臤が、サクの父を肩に担いだ。
父は何日も身を清めていないだろう。その身体からはむせかえるような臭いがした。しかし、大事な人であれば、気にならない。
弓臤がサクの父親を支え、サクが下から助けた。暗く長い階段を上る。
大の男を運びあげているために、弓臤の息遣いは徐々に荒くなった。彼はもともとあまり体力のあるほうではない。
暗闇を抜けた先に、婦好が待っていた。
婦好に父を預けると、弓臤は倒れこむように寝転んだ。
「くそ……疲れた」
「よくやった、弓臤。あとはわたしが引き受ける」
「弓臤さま、ありがとうございます。感謝いたします」
***
サクたちは、生還した父を連れて、婦好の屋敷に帰った。
ふたりのために婦好は部屋を用意した。
サクは、父の身を清める。
「サク、手伝おうか。人手は必要か」
「いいえ、わたしがすべて行いたいのです」
「そうか。あまり無理はするな」
母も兄弟もいないサクにとって、父は唯一の肉親である。
従者の助けは使いたくなかった。
婦好もそんなサクを見守った。
幼い日からサクの目に映る父は、賢く聡明で大きく見えた。しかし、いまはどうだろう。ひとまわり小さくなってしまったようだ。幽閉生活のすえ、ひどく痩せてしまったのである。
闇の中ではわからなかったが、父の長い髪は真っ白になっていた。
父は酷く憔悴している。
サクは白湯と粥を父の口へ運び、寝台に寝かせた。
長い夜であった。
サクは父の看病をする傍らで文字を作り始めた。微王と約束した女に関する文字である。
小石に鑿を使い、試作の文字を彫ってゆく。
約束の時間までは、あるようでない。
***
翌朝。
目を覚ました父の顔には従来の生気が戻った。
ようやく父と子が言葉を交わす。
「サク」
「お父様」
「……よく生きていた」
「お父様こそ」
文字を覚えた罪に娘は従軍し、父は幽閉されたのである。
比較的平凡に生きていた親子が幾度も死地を乗り越え、再び会うことができた。
父の大きな手のひらが、サクの頬を包む。
「わたしの知らぬ傷がある」
サクは、頰を撫でる父の手に指を沿わせた。
父の口が言葉をつなぐ。
「サク。助けられたな。おまえがなにを見て、どんな命運をくぐり抜けてきたのかは知らぬ。しかし、なにもいわずともその苦労はわかる」
まるで足元から頭の先まで、父の慈愛が包みこむような声だった。
優しさに満ちた親の瞳に、じわじわと滴が溢れて輝きを増す。
「つらかったな」
父の眼から一筋の粒が流れ落ちるのを、サクは初めて目撃した。
「……。うん」
父の指に触れ、サクはひとりの子供に戻った。




