表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/164

父と娘

 

 弓臤の言に、サクは動揺した。


「なぜ、いま、そのような話をなされるのですか」


「なぜだろうな」


 弓臤の無愛想な回答だけが、闇に響く。


『文字』と『史』の交換。

 どの行動が最善なのか。わからない。


『婦好に利用されている』という口舌。

 反論はできなかった。



 一段、また一段と、段を下るごとに、父との再会も近づいてくる。


 ──いまは、父の生死だけを考えたい。

 

 時折、弓臤の咳払いが聞こえる以外は、暗がりに沈黙のときが流れる。


 

 やがて、下へと続く段差が失われた。たどり着いたのは最下の土である。


 サクは硬く乾いたものを踏んだ。動物の骨か。砕けて粉々になる。


 ──父は、このような場所にいるのか。いったい、何日。



 サクにはなにも見えない。しかし、わずかに人の気配がある。



「いたぞ」



 弓臤がサクを引き寄せる。

 弓臤に手を引かれて、サクは誰かの髪に触れた。自分に似た、長く、まっすぐな髪。


「お父様……?」


 身体の主は、ぐったりと倒れている。


「お父様!」


 サクはそう呼びかけてから、父の髪に、顔に、身体を包み込むように撫でた。

 手のひらの感触から、懐かしくも、よく見知った形が浮かび上がる。


 冷たいけれど、あたたかい。

 肌から伝わる体温に、サクは安堵した。



「お父様。お迎えにきました」




「サ……、ク」


 ──聞きなれた、自分の名を呼ぶ懐かしい声。


 父は、疲弊しているのだろう。

 それ以上、しゃべることができなかった。


 風のとおらない地下牢。まるで、死者の墓である。おそらく、水も食料も人が死なない最低限を投げ込まれていたのであろう。

 サクが想像していたよりも、過酷な環境がここにはあった。


 父に会えない間に起こった出来事。告げたいことはたくさんある。しかし、今はまだ言えない。この場から、助けださねば。


 

 ──父は、生きている。



 もう会えないかと思っていた唯一の肉親。

 その奇跡に感謝した。



「おい、手伝え」


 弓臤が、サクの父を肩に担いだ。


 父は何日も身を清めていないだろう。その身体からはむせかえるような臭いがした。しかし、大事な人であれば、気にならない。



 弓臤がサクの父親を支え、サクが下から助けた。暗く長い階段を上る。


 大の男を運びあげているために、弓臤の息遣いは徐々に荒くなった。彼はもともとあまり体力のあるほうではない。



 暗闇を抜けた先に、婦好が待っていた。

 婦好に父を預けると、弓臤は倒れこむように寝転んだ。



「くそ……疲れた」

「よくやった、弓臤。あとはわたしが引き受ける」

「弓臤さま、ありがとうございます。感謝いたします」




***




 サクたちは、生還した父を連れて、婦好の屋敷に帰った。


 ふたりのために婦好は部屋を用意した。

 サクは、父の身を清める。



「サク、手伝おうか。人手は必要か」

「いいえ、わたしがすべて行いたいのです」

「そうか。あまり無理はするな」



 母も兄弟もいないサクにとって、父は唯一の肉親である。

 従者の助けは使いたくなかった。

 婦好もそんなサクを見守った。



 幼い日からサクの目に映る父は、賢く聡明で大きく見えた。しかし、いまはどうだろう。ひとまわり小さくなってしまったようだ。幽閉生活のすえ、ひどく痩せてしまったのである。


 闇の中ではわからなかったが、父の長い髪は真っ白になっていた。


 父は酷く憔悴している。

 サクは白湯と粥を父の口へ運び、寝台に寝かせた。


 長い夜であった。

 


 サクは父の看病をする傍らで文字を作り始めた。微王と約束した女に関する文字である。

 小石に(のみ)を使い、試作の文字を彫ってゆく。

 約束の時間までは、あるようでない。



 ***



 翌朝。

 目を覚ました父の顔には従来の生気が戻った。


 ようやく父と子が言葉を交わす。


「サク」


「お父様」


「……よく生きていた」


「お父様こそ」



 文字を覚えた罪に娘は従軍し、父は幽閉されたのである。

 比較的平凡に生きていた親子が幾度も死地を乗り越え、再び会うことができた。


 父の大きな手のひらが、サクの頬を包む。



「わたしの知らぬ傷がある」



 サクは、頰を撫でる父の手に指を沿わせた。


 父の口が言葉をつなぐ。



「サク。助けられたな。おまえがなにを見て、どんな命運をくぐり抜けてきたのかは知らぬ。しかし、なにもいわずともその苦労はわかる」



 

 まるで足元から頭の先まで、父の慈愛が包みこむような声だった。




 優しさに満ちた親の瞳に、じわじわと(しずく)が溢れて輝きを増す。






「つらかったな」







 父の眼から一筋の粒が流れ落ちるのを、サクは初めて目撃した。






「……。うん」





 父の指に触れ、サクはひとりの子供に戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ