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利害の天秤

 婦好は占いの結果を巫祝の長に渡した。


「さあ。貴殿にも、この甲骨の結果を読んでいだこう。なに、わたしはこの娘の父親の命さえあれば、その状態は問わない。釈放さえしてくれれば、今後わたしは貴殿の友人になれるだろう」


 巫祝の長の利害の天秤が傾いた。より利の大きいほうを()る。


「神の言葉なれば従いましょう。それに、婦好さまが友人になってくれるなら心強い」


 彼はため息をつきながら、告げた。

「婦好さま。あなたに敵う人はこの大邑商には、おりませぬ」


「そうか? わたしは貴殿が送り込んだこの娘には敵わない。わたしの暴走を止める者になると啖呵を切ったのだからな。さあ、そうと決まれば、早速、父に娘を会わせよう。どこにいるか」


「地下牢に」


「弓臤、サク、ともに向かえ。わたしはまだこの御仁と話がある」



***



 サクと弓臤は、地下牢へと続く階段へ案内された。

 酷く狭く、暗い階段である。

 案内の者は入らずに、ふたりだけが通された。


 父に会いたいと、はやる気持ちはある。同時に、サクは罠を疑った。


 そんなサクの心境を、弓臤は察した。

「俺たちを閉じ込めたところで、巫祝の長に利はない。いざとなれば、婦好が助けに来るだろう」


 弓臤が先に進んだ。


 暗闇の階段を降りる。

 弓臤は闇には慣れているようであった。


「足元に気をつけよ。おまえと一緒に階段を転げ落ちる気はない。焦るなよ」


「わかっています。それにしても、こんなにはやく上手くいくなんて、思ってもみませんでした。婦好さまは、いとも簡単に交渉をまとめてしまいました」


「婦好は己の立場をつかって、利を一致させただけだ。みたところ、巫祝の長の器は矮小で凡愚。つまらない人物だ。俺が欲しいものは、ここにはなかった。やはり……」


 そこまで言ったところで、弓臤が黙った。


「……弓臤さま?」


「サク。取引をしないか?」


「取引?」


「おまえは、清純を装ってはいるが、実は狡猾なおんなだ。だからこそ、この話はお前にもちかけよう」



 弓臤の顔は見えない。しかし、それゆえに声の持ち主の心情が固い決意に満ちていることが伝わる。



「おまえの知る『文字』を教えよ。

 その代わり、俺の知る『史』を教える」



「『史』……?」



「商には、ふたつの秘匿がある。『史』と『文字』だ」



 弓臤は階段を一段、また一段と下がるごとに語った。



「『史』とは、過去の出来事を記録するもの。商では、盲目の史官が脈々と受け継いでいる。人の生き様を音に乗せて、過去の記憶を人から人へ伝え続けているのだ」



「商の『史』は、隠匿されている。なぜならば、権力者はその改竄を恐れるからだ。なぜか、わかるか」



 サクは沈黙した。弓臤は、続けた。

 


「この世のすべてを手にした者が欲するものはなにか。それは、不老不死。若さと、永遠のいのち。しかし、そんなことは、どんなに神に祈ったところで叶わない」



「それならばと、後世に名を残したいと考えるようになるのだ」



「それを望む権力者にとって、史を紡ぐ者は重宝される。改竄することなく、後世に名声を記憶して伝える。それが史官たるものの役目」



「史官は本来、盲目の者しかなれぬ。俺が片眼を潰したのは、『史』を得るためだ」



「そこに、『文字』が誕生した。口頭で伝える『史』にかわって、おそらく『文字』もまた、後世に名を残す道具にされると俺は予想している」



「おまえには利用価値がある。

 女の身でありながら、『文字』を覚えている。それに『史』を加えよう、という提案だ」



「以前は、俺はおまえを危険視していた。そのために、殺そうともした。いや、いまでもそれは同じかもしれない。この腰の短剣を喉に突き立てれば、おまえの命など一瞬でなくなる。しかし。いまはそれをしない」



「むしろ、俺もおまえから利を取ろう。俺が知る『史』と、おまえの知る『文字』との交換だ。

 これは、どういう意味かわかるか。

 不死を願い後世に名を残したい者にとっては、最高の手駒だ。そう、この大邑商にとっては、最も価値のある人物となれるだろう」



「おまえは婦好の駒だ。しかも、珍しい。巫祝の長などとは比べものにならない」



「もし、『文字』と『史』両方を知る存在だと知られたら、権力者はこぞっておまえを奪いあうだろう。もちろん、婦好もまたお前を手放そうとはしない。より、一層な」



「……おまえだって薄々わかってるのであろう? わかってて、内心喜んでるだろう?」



 ようやく、サクは弓臤の言葉に口を挟めた。

「なんのことですか」



「そろそろ自覚しろ。婦好がおまえを贔屓にしているのは、おまえのことを愛しているからではない」



「認識できぬのであれば、教えてやる。おまえは、婦好に、利用されてるんだよ!」



「……!」



「だが、俺にはわかる。お前は婦好に憧れ、利用される者で良いと思っている。それならば、より深く婦好を取り込め。権力者が欲しがる『史』を武器としてな……!」


「弓臤さま、あなたの目的は……? わたしがそのような存在になることで、あなたに何の利益があるというのでしょうか」


「俺はただ、『文字』を知りたいだけだ。俺もまた、『文字』と『史』を知る者となりたい。己のために」



「俺の眼はあと十年もすれば、光を失うだろう。それまでに、俺の編んだ史を、後世に伝える存在となる。『史』と『文字』を使ってでな」



「それがどういうことか、お前にはわかるか?俺の言葉のひとつで、権力者の後世の評価が左右される。悪人にも善人にもなるのだ。いわば、死後の世界を操る存在になるのだ」



「お前も、なりたくはないか?」



「婦好を、後世に伝える者に」



 言い放つなり、弓臤はひどく咳込んだ。


 このまま咳き込み続けたら、血を吐くのではないかとサクが思うほどだ。





「喋りすぎたな」

 弓臤は自嘲するように、呼吸を鎮めた。




「俺の『史』と、お前の『文字』の交換。父親を救ったのちに、あらためてまた聞く。よく考えておけ」


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