敵陣視察
婦好と名乗った女将軍は、サクを抱えて己の戦車で庇護した。
戦車は三人乗りである。
馭者が、サクの乗っていた血だらけのを確保する。
あたりの土は、賊の血で汚されていた。
「戦車は貴重だ。敵はなにより戦力となる戦車を欲している。敵地に近いところを危機感もなく走らせていたら狙われてしまうものだ。来てみて正解であった」
王妃、婦好。
サクはその名だけ、父から聞き知っていた。
婦好は、商王の妃でありながら天下に比類のない将軍である。
商王に神聖をもとめる地域で知らぬものはいない。
高名の王妃が目の前にいるという事実は、サクにとって不思議な感覚であった。
揺れる戦車に合わせて、紅の衣が踊るようである。
明るく柔らかな髪が風に舞う。
その婦好の姿はサクがいままで見てきた人のなかで最も美しいと感じた。
「サク。そなたは王の禁忌に触れたと聞いたが」
「はい。『文字』を覚えたという罪です」
『文字』という言葉に反応して、婦好はすぐさまサクの唇に指で触れた。
華の香がサクの鼻孔をくすぐる。
誰もが惹きこまれるであろう大きな瞳が、サクの視界を覆った。
「その言葉。二度と他言するな。それは王が神と交わる際の神聖なるもの。王以外であつかえるものは巫祝十氏族の長だけ。つまり、この世でそれをあつかえるのは十余人の選ばれしもののみ。誰にも、渡すな。その胸のうちに秘めよ。どう利用されるか、わからぬ」
人差し指のぬくもりが、名残惜しそうに、サクの口元から離れた。
サクは婦好の人物に圧倒されていた。
――これが人の上に立つものの持つ気か。
「承知、しました……」
「それにしても、罪を償うためにわたしの軍に仕えよ、とは面白い。我が軍は死よりも過酷ということか。まったく、ひどい話だ。誰が言ったのか」
「わたしの父です」
「そうか。まあ、よい。わたしもそなたのような人物が欲しかった。天佑とはこのことだ」
婦好は妖艶とも健康的ともとれる笑みを浮かべた。
「サクよ。『選ばれしものの知識』で、わたしの側に仕えよ」
婦好に仕えるほかに、サクに選択肢はなかった。
「よろこんで、お受けいたします」
左右に揺れる戦車の上で、サクは跪こうとした。
しかし、均衡を崩し、よろけて転んでしまった。
足元にあった十数本の矛と戈がぶつかり合って音を立てる。
馭者を務めていた黒髪の女兵士が、
「このくらいで、倒れるとは情けない」と言う。
サクは戦車の縁に手をかけてやっと身体を起こした。
サクは居心地が悪くなって、できることならこの戦車から降りてしまいたかった。
「なんだ、サク。わたしにそのような礼は要らない」
婦好はサクの両肩を掴んで支える。
やや熱を帯びた視線をサクへ向けた。
「それにしても、サクは好い顔をしている」
「……?」
黒髪の女性は、
「ああ、婦好さまの悪い癖が、はじまった……」と呆れた様子だ。
「リツよ、妬いているのか」
「妬いてなどおりません」
「さあ、サクを迎えた祝いだ。敵陣を見にゆこう」
婦好の言葉に、リツと呼ばれた女性は諫めた。
「婦好さま。それはさすがに危険すぎます」
「少しなら、大丈夫だろう。わたしは行くと決めたら、行く」
リツは、ため息をついた。
「少しだけですよ」
***
婦好、リツ、サクをのせた戦車は北を目指す。
ゆく道は平坦だが、ときどき大きな石がぶつかって車体が浮いた。サクは車体が揺れるたびに身を投げだされそうになった。
サクがおそるおそる婦好とリツをみると、ふたりは陸地にいるように平然としていた。
サクたちが走る道の西側には見通しのよい小高い丘陵がある。さらに北へ進むと、東にもなだらかな丘がみえた。
のびやかに広がる大地だ。
農作物も育たぬであろう乾いた土。
「あの……、婦好さまは敵陣を見に行くとおっしゃられましたが、敵はどちらでしょうか」とサクは問うた。
「あの邑だ」
婦好が北の方角を指す。
遠方に土の壁でかこまれた邑があった。
「あそこに敵である鬼公軍がいる」
「これから戦うということでしょうか。いつになりますか」
「いつでも。これからかもしれないし夕刻かもしれない。わたしの気まぐれだ」
サクはあたりを見まわした。風が顔面を切るように吹いている。
直感する。凶。
「婦好さま。わたしの父は、占い師です。わたしは占いを嗜みます。おそれながら、この戦いを占ってもよろしいでしょうか」
「占い、か。便利だな。たのむ」
サクは幼い頃より父の仕事を観察していた。
巫祝である父の仕事は、王が神へ伺いをたてる占卜と、占った結果を亀の甲羅に記録することである。
サクは父のまねごとが好きだった。
物心がついたころには、うらないを遊ぶように嗜んでいた。
サクはいつでも占いができるよう、帯に牛の骨をしのばせている。
牛の骨を取り出し、矛で突いた。
巫祝の仕事は、できた亀裂の模様を読み吉凶を判断することである。
そして吉凶をふまえて状況を整理し、的確な進言をする。
巫祝たる者としてなによりも大事なことは、王の相談役として重宝される情報を伝えられるか否かだと父は言っていた。
占いの結果が出た。吉凶混合だ。
「良くも悪くもない結果です。しかし夕刻はやめたほうがよいかと思います」
「なぜだ?」
「いまは北から南への風がふいております。北へ侵攻するには向かい風です。これでは戦車の力を発揮できません。それに、夕方に戦えば敵と対面したときに西を向くことになります。夕暮れとはいえ、太陽を正面に戦えば不利になります」
「なるほど。では、いつが良いか」
「敵が朝の食事をとるときかと」
「ふむ。サクは、なかなか良いことをいう」
婦好がなにかを考えていると、リツが話をさえぎった。
「婦好さま、これ以上北へはすすめません。もどります」
どうやら敵陣に近づきすぎたようだ。リツが踵をかえそうとすると、婦好はリツを止めた。
「まて。鬼公が挨拶にきたようだ」
「鬼公?」
「鬼方をたばねる者。敵軍の総大将だ」
北の邑の門が開いた。
漆黒の戦車が一台直進してくる。
ひとりだけの戦車。
乗っているのは烏色の衣と鎧に、ながい髪を高く束ね、堂々たる偉丈夫だ。
大声をだせばお互いの声が届くという距離にその戦車は止まった。
平坦な大地に男の清らかな声が響いた。
「婦好よ、物見遊山か」
婦好が凛とはりあげた美しい声で返答する。
「新しい乙女がきたのでな。歓迎の儀式だ」
「それはよい。美しき乙女か?」
「初々しい乙女だ」
「なおのこと悦ばしい。我々も歓迎するとしよう」
なんてのびやかな警告だ、とサクは思った。ふたりとも神への祝福の言葉を述べているようだった。
サクがぼおっとしていると、鬼公の戦車は北の邑へと方向を変えた。
同時に敵陣の門から別の数十の車馬が出陣する。
「まずいな。逃げるぞ!」
婦好の無防備な訪問にたいして、敵側も進軍を始めたのである。
リツは馬を鞭打ち、戦車の速度をあげた。
サクは慌てて戦車のふちを両手でつかんだ。
気を抜くと戦車からふるい落とされそうになる。
サクがちらりとうしろを振りかえると、敵の車馬も速度をあげて追いかけてきていた。
「婦好さま、これは敵をあざむく作戦でしょうか。あの丘に味方の伏兵がいるとか」とサクは問うた。
「はははは、策などはない! 遊びにきただけだからな。逃げるのみだ。そなたのいうとおり、逃げるにはよい追い風だ。今日はなんて風が気持ちよいのだろうか! 風まで読むとは、そなた、なかなか気にいった!」
婦好は子どものように笑った。
児戯で危険な目にあうなど、冗談ではないとサクは思った。
リツは淡々と戦車を走らせている。
サクは戦車から落ちることのないように、身をまるめて衝撃から耐えた。
一方、婦好はゆったりとした態度でサクに聞いた。
「それはそうと、サク。今夜の寝床は決まっておるか?」
「? とくに決まってはおりませぬが」
「ならば今夜はわたしの部屋で寝るとよい」
断る理由もなかったので、サクはみじかく「は」と返事をした。
今夜の寝床よりも、今、身を守ることのほうがサクには大事だった。
するとリツが口を挟んだ。
「サク。気をつけよ。婦好さまは、お前のような乙女が好みだ。おんな同士だからといって油断するな」
リツからの思わぬ忠告にサクは混乱した。
「えっ。大変おそれながら、婦好様は、……王の妃、ですよね?」
「妃とは名ばかりだ。王とは寝所をともにしたことなどない。考えただけで虫酸がはしる。わたしは側におくなら、男より乙女のほうがいい」と婦好が言った。
サクに男女のことはよくわからない。
しかし、自身にも敵に追われるとは別の、危険ななにかが迫っているらしいことはサクにでも察知できた。
「サクが婦好さまを怖がっております」とリツが言った。
「なに、冗談だ。あははははは」
婦好が愉快そうに笑った。
そのとき、
「おっと」
婦好とサクの間に一本の矢が降り注いで、戦車に刺さった。
ここは、なんて、危険な場所だろうか。
命があるとはいえ、サクは己のこれからの身を案じた。