預言するもの
鳥の囀る声に、サクは起きた。
寝具は白色を取り戻し、涼やかな空気が思考を包む。
サクは寝台から降りた。
昨晩、婦好はその名を教えてくれなかった。動揺していないといえば、嘘になる。
しかしいま、サクには早急に行わなければならないことがある。父の命を救うことと、文字を作ること。
──気を引き締めなければ。
サクが髪を編んでいると、婦好が部屋の窓の縁でなにかを思案していた。
東からの光を背に受けて、その顔に影を落とす。
「婦好さま……? どうされましたか」
「サクの父上のことだ。ふたりの人物から情報が入った。
巫祝十氏族の長が組織的に、かつ個人的に、サクの父上を幽閉していて、姉は手が出せないということだ」
「組織的に、かつ個人的に……?」
「巫祝十氏族は、姉でも、王といえども口出しすることはできない勢力なのだ」
「そうですか」
そう言って、サクは目を臥した。
婦好の姉をしても、王の助けを受けても手出しができないとすれば、父を救うことは困難であろう。
しかし、もし父の居場所がわかっているならば、サクはすぐにでも駆けつけたかった。
「あきらめるな、サク。サクにはわたしがついている。方策がないわけではない」
「そうだ。打つ手は無数に、ある」
突然、聞きなれた男性の声がする。
サクが確認すると、窓の外には弓臤が居た。
弓臤は自生して伸びた植物の間に佇む。
「弓臤さま。こんなところにいらっしゃったのですか」
「婦好に情報を売りにきたのだ。話の続きだ。この件について、俺にも加わらせてくれないか。欲しいものがある」
「申してみよ」
「巫祝の長がなぜ、南を幽閉したのか。こいつが文字を知ったことなど、きっかけにすぎない。
南は、巫祝としての能力が突出していて、王にも気に入られている。つまり、幽閉は南を快く思わない連中の嫉妬が引き起こしたもの。そして、巫祝の長たる立場を守るための行動。巫祝十氏族内の保身と妬みが原因だ」
「ありそうな話だ。弓臤に確認したいことがある。前王の側近など、そのほかに繋がっている勢力はあるか」
「巫祝十氏族の外に連なる勢力は、おそらくはない。ゆえに、操りやすいともいえる」
弓臤は続けた。
「提案だ。俺がこいつの父親の身代わりとなり、受刑者を演じよう。俺の情報では、幽閉されているのは地下牢と聞いている。なに。俺はそのような場には慣れているから、どうということもない」
「それで、弓臤が身代わりとなったあとはどうする」
弓臤は壁にもたれかかった。
「俺は頃合いを見計らって、地下牢から出よう。こいつの父親は祭祀のときなど、機をみて王とともに登場し、平然と従えば良い。あとのことは、知らん。命さえあれば、どうにでもなる」
「弓臤の欲しいものは、地下牢にあるのか」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。しかし、潜り込んで確認したいことがある。どうだ。皆の利害が一致しているとは思わないか」
「粗雑な計だが、悪くはない。しかし。わたしはこの場面で、最大の利を取りたい」
婦好は窓枠から身体を離した。そして窮地を愉しんでいたときのような声を響かせた。
「サク。正面突破だ。直接、巫祝の長のもとへ乗りこもう」
「それは、直談判するということでしょうか」とサクは問う。
「そうだ。少しばかり芝居じみたことも行う。サクに新しい服を誂える。弓臤、お前も新しい衣服に交換せよ。そして、付き人としてともに来い。
サクの父を助けるとともに、巫祝の長を取り込む好機でもある。弓臤の欲しいものとやらは、その過程で得るが良い」
「わかった、付き人役をやろう」と弓臤は受諾した。
「決まりだ。早速、面会を申し込もう」
サクの主人は一度決断したら、疾い。それは人の上に立つものとしての資質なのかもしれない。
「どのような芝居をするのでしょうか」
「大丈夫だ。サク。相手は人である。うまくいけば、こちらにも利がある。まあ、気楽にゆこう」
***
婦好は配下の者をつかって、巫祝十氏族の神殿へ乗り込む準備をした。
さっそく、婦好が呼んだ縫製師の集団がサクと弓臤を取り囲む。
弓臤だけが、別の部屋にあっという間に連れていかれた。
縫製師たちは、既存の着物をそれぞれの丈に縫い合わせる。
サクは上質な青い衣装を身につけた。
清く、可憐な柄である。
丹念に編まれた絹は光を受けて輝く。
婦好は白と金を基調とした一級品。
まるで爛々たる麗人が天界から舞い降りたようであると、サクは思った。
「似合ってるぞ、サク」
「あっ……、ありがとうございます。婦好さまも、お似合いです」
弓臤もまた別室から現れた。
茶と黒を織り交ぜた色は、その知性を際立たせていた。
「弓臤も男前だ」
「嫌味か。婦好よ。お前も男前だ」
「あははは」
***
三人は馬車で移動する。向かう先は、巫祝の長の寝殿であり、巫祝十氏族の神殿である。
サクと弓臤は、『少しばかりの芝居』のために鼠色の衣で顔を隠した。
到着するや、婦好は門番にその来訪を告げた。
「婦好である。巫祝の長にぜひ礼を申し上げたくて参上した。案内願いたい」
「ひっ、ひゃいっ……!」
門番は婦好の美しさに驚き、慌てて奥へと消えていく。
「すこし、緊張してまいりました」
鼠色の布の奥で、サクは心境を述べた。それに対して、婦好がサクの耳元で囁く。
「打ち合わせたとおりに、うまくやろう」
案内のための女官についていくと、大広間に通された。
婦好は勧められた長椅子にゆったりと座る。
サクと弓臤は付き人らしく、婦好の近くで跪く。鼠色の衣を頭から纏ったまま待機した。
部屋の奥から、中肉中背の、丸い瞳の男が現れた。
「これはこれは、婦好さま。ようこそ起こしくださいました」
巫祝の長が古来よりの礼を厳かに行う。
「お初にお目にかかります。婦好です。戦場からこの安陽へ戻ってまいりました」
婦好もまた礼儀から外れることなく、相手を包みこむような仕草をとった。
お互いを味方ではない者と認識しながらも、表面は親しみを表現する。
血を流すわけではないが、そこは既に交渉という場での戦地であった。
「本日は、貴殿に礼を申し上げにきたのです」
「礼、とは?なんでしょう」
巫祝の長は穏やかな顔で聞き返した。声色に警戒心がわずかに滲む。
「この娘と、出会わせてくれたことです。サク」
「はい」
婦好の合図にサクは立ち上がり、顔を隠していた鼠色の衣をゆっくりと取り払った。
「挨拶せよ」
「はじめまして。巫祝、南の娘、サクにございます」
サクは、最上級の礼を丁寧に演じた。
弓臤の助言のとおり、巫祝の長としばらく視線を交わしたのち、斜め下にはずす。
「この娘は文字が読める。占いもできる。そして、なかなかに賢い。貴殿が私の軍に送るように手配してくれたのだとか。本当に感謝いたします」
「ふむ。そうでしたか」
「この少女は知ってのとおり、文字を操ることができます」
巫祝の長の眉がわかりやすく動く。
その挙動を三人は見逃さなかった。
「実は、今日は貴殿に教えていただきたいことがあるのです。この娘の父親は、幽閉されていると聞く。なぜ幽閉されているのか、その罪状を聞かせてほしい」
「婦好さま。お許しを。ご存知のとおり、南はこの娘に文字を教えました。そのことは、巫祝十氏族の間では、大変な罪なのです。なにせ、我々の役目を奪われることとなるに等しい。娘可愛さに、やすやすと秘儀を伝授した南には、相応の罰を与えねばならぬでしょう」
「貴殿は女が文字を扱うことは、罪だとおっしゃるか。それならば、わたしも矛を置かねばならない」
婦好は語気を強めた。
「いえ……。この娘の罪は、巫祝十氏族の家長たるものだけが扱える文字を、覚えたことにあります。決して、女が、というわけではありません」
「巫祝十氏族の家長に限るとは、誰が決めたことなのか。微王はすでに許した。王でなければ、巫祝が文言を預かるところの、神か」
「そうです。神です。文字は秘密にしなければならない、神聖なものなのです。軽々しく扱うものではありません」
「巫祝の長よ。正直に言おう。サクの父を解放してほしい。そうすればわたしは今後、貴殿とは良い関係を築けるでしょう」
巫祝の長は凡庸な人物であった。しかし、愚かではない。婦好は軍を率いながら、王の妃という立場である。
婦好を敵まわすのは得策ではないことはわかっている。むしろ、後盾としたほうがよい。利害の天秤が揺れる。
交渉を優位とするために、婦好は次の一手を繰り出した。
「禁忌とする根拠を、神の意志というのであれば、いますぐ神に問おう。サク、亀甲をもて」
「神の意思は、王が問うべき事柄にございますれば」と、巫祝の長は占いを制止しようとする。
「なに、神の意志を聞くのに王の許可など要らない」
サクはあらかじめ用意していた亀の甲骨を、巫祝の長に差し出した。
「どうぞ。細工がないかお調べくださいませ」
婦好は巫祝の長に問いかけた。
「貴殿に聞きたいことがある。うらないをするにあたって、望む結果とするべく、あらかじめ亀裂をつくったり、あえて結果を読み間違うことはあるか」
「巫祝の名にかけて、そのようなことはいたしませぬ。天に誓いましょう。しかし、念のためこちらの持っているものと交換いたします」
「安心した。さあ、サクよ、占え」
サクは、『文字を秘匿とできるかどうか』を占った。
細工などはない。相手もまた巫祝。しかも、長である。
ごまかしはきかない。天運に任せての賭けである。
婦好には、もし望む結果がでなければ、甲骨を渡せと言われている。その時は『少しばかりの芝居』を打ち、真っ二つに割ってしまえば良いと。
神を信じながらも、天をも恐れぬ主人らしい考えである。
しかし、サクには確信があった。
この結果は必ず、予想を違えることはない。
粛々と、丁寧に占卜をはじめる。
炙った甲羅は、乾いた音を立てた。
できた亀裂は、サクが見てきた中で最も美しい。
サクはその卦に敬意を払い、厳かに伝えた。
まるで、神の声を預かる者を演じるかのように──。
「謹んで申し上げます」
「文字をこの世の十数名で秘匿とすることなど、できませぬ」
「文字はやがて、この世をあまねく支配するでしょう」




