商に愛されるもの
日暮れとともに、サクのいる部屋に婦好が戻った。婦好は、十数名の女官を従えていた。
「サク、身を清めに行くぞ」
「は」
サクが目を白黒させているうちに、女官たちに囲まれて、あっという間に別の部屋に連れ去られてしまった。
婦好は薄く上質な布一枚を羽織り、ゆったりと椅子に座る。女官たちは英雄を囲み、楽しそうに騒いでいた。
「この長い手足、わたしたちの主人にそっくりですわ。しかし、日に焼けた肌と、逞しい腕が違いますね」
「そうか。あまり姉と比べてくれるな」
サクは婦好の隣で、またたくまに服を脱がされてしまった。
「まあ、こっちの子は痩せていて貧相ねぇ。ちゃんと食べてるのかしら」
「あはは、軍ではいつも兵糧に悩まされているからな。宮中にいるうちに太らせておこうか」
サクは女官たちによって、頭から足の爪の先まで、余すところなく磨かれる。
「サク、どんな気分だ?」
婦好がサクの顔をのぞきこむ。
「王になった気分です。しかし、少し痛いです……」
サクの答えに、婦好が満足そうに笑った。
「あははは。みな、優しくたのむぞ」
婦好は女官たちに促されるままに、部屋着に身を包んだ。宮中の上質な絹製の寝巻きである。
「ん? 宮中の縫製師はまた、腕を上げたようだ」
「あら、お伝えしておきましょう、縫製師も喜びますわ」
サクも同じ衣服を身につけたのだが、裾が余ってしまった。
すべての作業が終わると、最も位の高いであろう女官が婦好に拝礼する。
「それでは、婦好さま。おやすみなさいませ」
「おかげで極上の気分であった。みなもゆっくりおやすみ」
女官たちは、黄色い声をあげながら去ってゆく。
婦好とサクは部屋に戻り、その扉を開けた。
「サク。サクの父のことであるが、喜べ。父上は生きているようだ。釈放までは、その続報を待っている」
二人きりになるなり、婦好はサクへ伝えた。
「ありがとうございます」
サクはほっとした。
──父は、生きている。
「婦好さまと、お姉様のおかげです」
「姉上の宮中を治める手腕は、この九年で格段に上がった。おそろしいほどに」
寝台はふたつ。婦好はサクに近づいた。
「頰の傷は、跡が残ってしまうな……」
婦好がサクの右頰に手を添えた。
「サクを微王から守りきれなかった。わたしの落ち度だ」
「いいえ。婦好さまの責任ではありません。命があるだけで充分です」
「微王の前で、よく九十九文字を書いた。しかし、血で書かせるなど。狂気だ。さらに、女に関する文字を百二十考えさせるなど……、どうかしている」
「百二十字……。そうでした。まだ、何も考えておりません」
婦好はサクの頭に二度手触れた。
「わたしはサクを信じている。まだ、血が足りなかろう。さあ、休みなさい」
サクは婦好に言われたとおり、寝台に身体を預けた。
***
深夜、サクは喉の渇きを覚えた。
身体を起こして、水を口に含む。
「眠れないか」
「起こしてしまいましたか。申し訳ありません。昼に寝てしまったので、なかなか寝つけませんでした」
「サク、こちらにおいで」
婦好はサクの腕を取り、寝台に招きいれる。
「眠れないなら、なにか話そうか。わたしも話したい気分だ」
「はい。おつきあいします」
サクは婦好の寝台にもぐりこんだ。
長い旅路のなかで、ひとつの寝台を使うことは珍しいことではなくなっていた。
「戦う目的はなにか。サクはいつでもわたしに問うてきたな。この大邑商が求めるところを、いま、サクに教えよう。今日も腹の内のわからぬ者たちと、そのことについて話してきたところだ」
月明かりだけが、婦好の横顔を照らす。
「商が欲するものは、支配圏の拡大などではない。銅鉱、つまり銅の鉱産地である」
「銅鉱……。銅をめぐる争いということでしょうか」
「そうだ。廟堂の黄金を見たであろう。銅は神を喜ばせ、武の強大さを物語る。権力の象徴だ」
サクは廟堂に並べられた黄金の器を思い出す。それらは精巧に作られていて、迫る気を感じた。
「サクと出会ったときの、小さな邑をめぐる争い。あの戦いには、鉱産地でありながら商へ奉納しない地域への制圧が目的あった。沚馘の近くにも、銅山がある。銅のほかには錫も重要である」
「いままでの戦いの裏には、銅の存在があったということですね」
「そうだ。銅を巡る技術者集団。これを工方という。工方の勢力は一枚岩ではない。商王に従う工方もいるが、商に反発する工方もいる」
婦好は続けた。
「商に欲するもの。それは、銅、錫。つぎに塩、馬」
「銅、錫、塩、馬」
サクは身に刻むように、反芻した。
「共通することは、人々がみな欲していて、なおかつ希少性のあるものだ。しかし、最後に。大邑商が銅とおなじくらい欲しているものがある。それはなにか、わかるか」
「銅や錫。塩や馬のほかに?」
銅と錫は器や武具となり、祭祀の対象となる。取引で最も交換性が高い。
塩もまた取引によく使われる。食材の保存や調理には欠かせない。
馬は戦に使い、移動にも使う。
サクは、人々が生活する上で、欠かせないものに思いを馳せた。
なくなると困るもの。例えば、この寝台を構成しているのはなにか。
「蚕、もしくは木材でしょうか」
「それも、たしかに重要だな。しかし、それだけがあっても物としては完成しない。ただの材が、使うべき物となるにはなにが必要だ?」
蚕から絹にするには。
木から有用な形を切り出すには。
「ひとのちから……」
「そうだ。人。つまり、人間だ」
「商においては、人をどのように使うのですか」
「……どのようにでも。日々仕えるための下僕。墓陵をつくるための工人。神に捧げる犠牲」
「犠牲……」
先の戦いで、犠牲となった者たちのことを、サクは想った。
「犠牲は本当に必要なものなのでしょうか」
「ふ、ふ。サクは風習を疑う者だったな。その疑問、いつまでも持っていよ。大邑商は、神の望むとされることをしているまでだ。そして王だけが、神の言葉を届けることができる」
サクは、微王とのやりとりを思い出した。
理由のない行動、理不尽、気まま。
もうひとりの商王とはどのような人格なのか。
「王には、驚きました。婦好様は王とは夫婦なのだと思っておりました」
「それは違う。王とこうして寝台をともにするなど、想像したくもない。わたしも、サクと同じ。この身は清いぞ」
婦好の身は清い。サクはすこし安堵した。なぜかは、わからない。
「婦好さまは、十二歳の頃に婚儀から逃げたとおっしゃいました。そのときのこと、お聞きしたいです」
「もともと、好邑は女が強い一族なのだ。リツとともに武芸を磨いていた」
「リツさま」
「リツは同郷だ。ともに野山を駆け巡る幼少期であった。いまと、あまり代わりはしない」
「お姉さまとは……」
「姉はわたしとは違う。姉は生まれた頃より、好邑の祭祀を担う存在だった。サクは、斎女を知っているな」
斎女とは一家の長女が、神に仕える役割を与えられることである。
斎女は一生を未婚でいる。
「実は、わたくしも文字を知る罪に問われるまでは、家では斎女としての役割がありました」
「サクも姉と同じく、長女であり、斎女か」
「はい。母はわたしを産んだ時に死にました。兄弟はいません」
「斎女は神に仕えるもの。婦好軍もまた、同じだ。ゆえに、家に縛られた斎女を集めている。レイなども、斎女の出身だ」
「そうだったのですね」
「姉の話だったな。斎女たる姉がなぜ、嫁ぐことになったのか。それはもともと、微王が好邑に来たときのことだ。たまたま武芸に身を投じていたわたしに、微王は婚姻を迫った。わたしは反発したが、父は断りきれなかった」
「わたしの身代わりとなるために、姉は申し出た。姉が代わりに嫁ぐと。それが認められないなら、媵として二人で嫁ぐと。わたしは猛反対した。
その頃、王の人格は微王から商王へ交代していた。姉は、商王に出会うなりその人格に惚れた」
「美しい姉と出会った商王もまた婚姻を快諾した。わたしは姉とともに逃げ出したかったのだが、姉は許さなかった。姉はすでに商王に心奪われていたのだ」
そういうなり、婦好は仰向けに寝転がる。
「婚姻の前に、わたしだけが逃げ出した。わたしも若く未熟だったのだ。昔のことだ」
サクは、目の前の長い睫毛が揺らめくのを見逃さなかった。
──おそらく、婦好は姉に姉妹以上の想いを抱いていたのではないか。
だとしたら、淡い失恋。
婦好と婦好の姉は、似ているけど、違う。商に愛される姉妹。
──もっと、知りたい。
この強い人の、弱さに触れたい。
意を決して、サクは最も知りたいことを切りだした。
「婦好という名前は……、好邑の妃、という意味。お姉さまと婦好さまのふたりで、その名を負っています」
サクは呼吸を整えた。
「教えてください。
婦好さまの、本当のお名前は……?」
サクの問いに、婦好は天井を見つめた。
「……わたしは、姉のために武を奮うと決めたその日に、名を捨てた」
婦好は体勢をかえ、サクの耳に唇を近づけて囁いた。
「秘密だ」




