商王の寵妃、婦好◇
サクが次に目覚めたとき、すでに夜が明けていた。
──ここはどこだろうか。
ぼんやりと人の輪郭が浮かぶ。
「婦好さま……?」
「起きたかしら」
サクの寝ているすぐ近くの椅子に、美しい人が腰かけていた。
その人は神秘的なまでに漆黒であった。
肌の白さが艶やかな黒髪と対比を描いていて麗しい。
顔立ちは婦好そのものだが、サクの主人ではない。
サクは、思わず口に出した。
「もうひとりの、婦好さま……」
その美しい人は優しい笑みを浮かべた。
「食べて。血を失ったそうね」
サクは、粥をすすめられた。
よく見慣れた形と同じ、美しい指。しかし日に焼けて健康的な肌ではなく、雪のような白さだ。促されるままにサクは食べ物を口にした。
なにかを言わなければいけないと思ったが、サクはうまく頭が働かなかった。
目の前の人の所作には無駄がない。
──まるで、天女。
美しい人は外を眺めていた。
このまま時が過ぎたら神の使いたる野鳥なども訪ねてきそうだ。
「貴女は、妹をどう思ってるのかしら」
「え……?」
それは質問というよりも小さな独り言である。
サクが自分の空耳かもしれない、と疑うほどであった。
サクがどう答えて良いかわからずに迷っている間、静寂が流れた。
「サク、起きたか」
「婦好さま」
空白の時を埋めたのは、サクの主人たる婦好であった。婦好は颯爽とやってきて、その美しい人の後ろに立った。
「紹介しよう。姉の婦好だ」
この世のものとは思えない造形の女人がふたり、サクの眼前に並ぶ。
光り輝く健康な美と、白と黒の幽玄な美との対比。
あまりの眩しさに、サクは幾度も目を瞬かせた。
「婦好さまの、お姉さま。
……あっ!
失礼いたしました。わたしは、サクと申します」
「サクちゃん。はじめまして。
わたくしも婦好ですわ」
『もうひとりの婦好』
以前に婦好が語った存在。
過去の言葉に、現実が繋がった。
「貴女のことは妹から聞いています。
微王に文字を創れと命じられたそうね。
文字を知っているなんて、すごいですわ。商王はわたくしにも文字を教えてくれないというのに」
婦好の姉は、物憂げな仕草である。
一方、婦好はサクの寝ている寝台にどかりと腰かけた。
「王のことだ。
文字をつかって姉上に知られるとまずいことでも書いているのだろう」
「まあ。そう言われると、余計に知りたいですわ」
婦好の姉はくすくす、と笑った。
婦好はその様子をサクも見たことがないほど慈愛に満ちた顔で眺めていた。
サクは、はっとした。
気がついてしまったのだ。
──婦好はこのかたを愛している。
察知すると同時に、なぜかサクは頰を傷つけられたよりも深く、胸中が痛んだ。
「あの、婦好さま。おふたりの関係は……?」
「あら。まだ説明していなかったのですね」
「わたしたちは異母姉妹だ」
婦好はすらりと長い足を組み直した。
「すこし、昔話をしようか。サクは、媵という風習を知っているか」
「媵」
媵というのは古来よりの風習である。
婚姻関係を結ぶにあたって、同じ家の姉妹がひとりの夫へ嫁ぐことがよくあった。これは、婚家から確実に子をもうけるためである。
「聞いたことが、あります。
家督の継承者を確実にもうけるために、同じ家の姉妹が同じ男性のもとへ嫁ぐと」
「サクよ。そのとおりだ。
わたしは、好という邑の族長の娘として生まれ育った。
姉が十四歳、わたしが十二歳のときだ。
若き日の商王のもとへ嫁がされた」
「十二歳のとき……」
「九年前のことですわ」
「そうか、そんなに経つか。
婚姻の前、わたしは儀式から逃げ出した。
まあ、いまに至っても妃たる役目からは逃げていると言えるが。
逃げ出した後は、好邑の軍人として戦いに明け暮れた。そして乙女だけの軍を率いるようになった」
王妃たる婦好が、軍を率いるまでの経緯。
「婦好さまには、そのような過去があったのですね」とサクは述べた。
「妹はその後、実力だけで将軍としての立場を確立させました。
好邑という小さな村から嫁いだわたくしが正妻のように扱ってもらえるのは、ひとえに将軍たる婦好のおかげです。
この宮中では、より強大な後ろ盾を得ている者に祭事の発言権は集まるものですわ」
「祭事の、発言権」
「婦好の名は『好邑の妃』という意味ですわ。
わたくしたち姉妹は、わたくしが王の妻としての役目を。そして、妹が将軍としての役目を果たしているのです。
『婦好』とは、そういう存在なのです」
と、婦好の姉が言い切った。
「わたしを王の妃だと思っているものもいるが、厳密にはそれは違う。しかし、否定はしていない。そのほうが都合が良い場合も多いからな」
「わたしも婦好さまを王妃だとずっと思っていました」
サクは出会った時から、当たり前のように『婦好は王妃である』と思い込んでいたことを振り返った。
「あら。形の上では、王の妃であることは間違いないですわ。商王も微王もそう思ってらっしゃるもの」
「はは。正直、わたしは王に対しては、一介の軍人であり、王の友人でいたいな」
一介の軍人であり王の友人。
婦好らしい、とサクは思った。
「商王にはほかにも奥様がいらっしゃるのですか」
「ええ。正妃はわたくしたちが嫁ぐ前に亡くなったので空席ですが、妃は少なくとも十人はおりますわ。
サクちゃんも微王に出会ったからなんとなくわかるのではないかしら。微王は好色家なのですわ」
「商王は姉上ひとりを愛しているのだが、微王が、な。節操がない」
「わたくしも、愛するひとは商王ひとりです。
微王には指一本触れさせませんよ。
それに微王は危険です。
微王のために腹上死した女性は多いのですわ」
婦好の姉は手を伸ばして、サクの右頬に優しく触れた。
「サクちゃんも、かわいそうに。微王はなんてことをするのかしら。女の子の顔に傷をつけるなんて」
「いいえ……」
婦好もまたサクの肩に手を置いた。
「サクを守れなかったわたしの落ち度だ。責任はわたしがとろう」
「責任」
婦好の言葉に、サクの顔は赤面した。
「ふふふ、仲がいいこと」
婦好の姉の、すこし、棘のある言い方である。
姉の婦好は机の上にあった棗を取り出した。
「季節がまだ早いけれど、血を失った時は棗が良いそうよ」
「わたしもいただこう。サクも食べよ」
婦好が棗を齧りながら言った。
婦好から手渡された棗を食べようと、サクも口を開けた。
「痛っ……」
「傷が痛むか」
「はい」
「そうか。では、わたしが口移しでもしようか」
「えっ」
「まあ、はしたない。わたくしが剥きますわ」
婦好の姉は棗をサクの手から奪った。
「冗談だ。わたしが剥こう」
婦好は棗を姉から受け取って、果物用の刃物でするすると皮を剥いた。
「そうでしたわ。
将軍たる貴女に相談がありました。
わたくしと同じ時期に子を産んだ婦井が、なにかと対立しようとしてきます。
おそらく、子の王位を狙っているのでしょう。
そして、婦井もまた乙女の軍を編成したそうです。しかも、戦うだけではなく女の武器を使っているのだとか」
「女の武器か。昨日、婦井のところのセイランという娘からそのような香りがした」
「そう。セイランと会ったのですね」
「向こうの陣営に敵視されていようが、味方が増えるなら、わたしは一向に構わない。乙女の軍を率いるというのなら、いずれ戦場で会うこともあろう」
婦好は剥き終わった棗の果実を、サクの口に運んだ。
サクの舌に、瑞々しくもさわやかな香りが広がる。
その様子を婦好の姉は、じっと見つめていた。
「あなたたちは本当に仲が良いのですね。うらやましいほどに、微笑ましい主従ですわ。
サクちゃん。
突然ですが、貴女に質問がありますわ」
「なんでしょうか」
「貴女の父と、わたくしの妹。どちらかの命しか救えないとしたら、どちらを救いますか」
「姉上、どういうことですか」
「失礼ながら、サクちゃんの身辺を調べさせていただきました。
その過程で、貴女のお父様の情報を得ました」
「父のこと……?」
「答えがあるまでは、以後の質問は受け付けません。さあ、貴女の父の命と、わたくしの妹の命。どちらを取りますか」
「わたしは……」
サクは突然の質問に困惑した。
父親は、サクの唯一の肉親であった。
しかし、サクは婦好に仕えることを強く覚悟している。
導きだされる答えは、単純なことである。
「婦好さまのお姉さまが、どのような条件でおっしゃっているかわかりません。
しかしわたしは、わたしの命に賭けてでも、ふたりの命、どちらも救うことを模索したいです。
場合によっては、わたしの命を捨てることとなっても、です」
「サク」
「……まぁ、いいでしょう。貴女のこと、試させていただきました」
婦好の姉は目を伏せ、続けざまにその真意を明かした。
「なぜ、このような質問をするのか。
宮中は不穏です。人は常に裏切ると思って疑ったほうがいい……わたくしが九年のうちに学んだことです」
「貴女は妹の寵愛をうけておりますが、わたしは妹のために貴女を疑っておりました。しかし」
「わたくしの粥を疑問もなく飲み込んだこと。妹のために父の命をも差し出すと言わなかったこと。もし間者であれば食べ物に口をつけるのは躊躇うものですし、質問には、こちらに媚を売るために、耳障りの良い言葉を即答するものです。
貴女にはこれらが見られなかった。
よって、わたくしは貴女を敵の間者ではないと判断しました」
「姉上」と、婦好は姉を諌めた。
「貴女を思えばこそですわ」
婦好の姉は、続けて言った。
「サクちゃんのお父様は巫祝だそうね」
「はい。父は南と申します」
「ええ。調べました。いまは幽閉されております」
「幽閉……?」
サクは、父が謹慎しているとは聞いていたが、幽閉とは初耳であった。
「それは由々しき事態だ。
微王はサクを許した。商王さえ許せば、幽閉の身を解くこともできよう」
「南は、巫祝の長の奸計に嵌ってしまったようです。
貴女を妹の味方として信用したからには、わたくしからも幽閉を解くように働きかけてみますわ」
サクの父は身体が弱い。幽閉の環境によっては、死も覚悟せねばならないだろう。
「ありがとうございます。父は身体が弱いのです。父の生死だけでも知りたいです」
「そうなのですね。あなたを信用すると決めたからには、わたくしもできるだけのことはしましょう」
そのとき、部屋にばたばたという足音とともに甲高い声が響いた。
「いた! ははうえ!」
「あっ! しょーぐんだ!」
幼少の女児と男児である。
どことなく、婦好と微王に似ている。
「まあ、あなたたち、起きてしまったのですね」
子は母を求めて抱きつく。
しがみついた先は、婦好の姉であった。
婦好が幼子を抱き上げ、肩にひとりずつ乗せた。
「おまえたち! 母を探してきたのか! 見ないうちにまた大きくなったな!」
高くなった視界に、きゃっきゃっ、と子供が笑う。
「さすがに、重いな。
サク、こちらは姪と甥だ。つまり、王女と、王子だ」
「王女と、王子」
「どうやら乳母のもとから逃げ出したらしい。若き日のわたしにそっくりだ。さて、これから乳母のもとへ連れて行く。
サクはこの部屋でまだ寝ていると良い。ここは、安陽でのわたしの部屋だからな」
「ありがとうございます」
「子どもたちも起きてしまったことですし、わたくしもそろそろ行きますわ。サクちゃん、試したりしてごめんなさい。宮中は本当に恐ろしいところなの。お父様のことはわたくしに任せて。ゆっくり身体を休めてくださいね」
「サクよ。わたしも用事があるから行くが、夜には戻る。それまで、身体を休めよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
サクはふたりと、子どもたちの背中を見送った。
部屋に静寂が訪れると、サクはぽすり、と寝台に身を預けた。
たくさんの情報がサクを押し寄せる。
──わたしは婦好の姉に、王妃に、試されていたのか。
サクは寝台で仰向けになりながら、ふたりの会話を反芻した。
──父は、無事だろうか。
幼き日に母を亡くしたサクにとって、父は唯一の肉親だった。
文字を知る罪を問われて以来、己の死を覚悟していたが、父の死までは考えていなかった。
そして、宮中の婦好をめぐる関係性。
商王と婦好の姉は愛し合っている。
微王は女好きで、婦井は微王の子を宿して婦好の姉と対立する。
──婦好さまの、あの瞳。
おそらく婦好はあの美しい人を愛している。
だからと言って、サクにはどうすることもできない。だが、なぜか胸が痛む。その理由に思いを巡らせていた。
しかし、思考に靄がかかっていて、うまく考えることができなかった。体調が良くなったら考え直そうと、サクは寝台の布に顔を埋める。
頰の傷が痛んだ。
少し寝返りをうつと、嗅ぎ慣れた華の香りが鼻をくすぐる。
──文字も、つくらなくては。
サクはふたたび眠りについた。




