神宿す器、微王
馬車は安陽の中央部を目指して進んだ。
来た道よりは平坦だ。車輪が止まることなく進む。両脇には民家が並んでいて、整然としている。
「婦好さま」
「婦好さまだ」
婦好に気がついた民衆が婦好をひと目みようと、集まってきた。
民衆は立ち止まり礼をとる。歓声をあげて手を振るものもいる。
「皆、ひさしいな。わたしはいつでもみなの健勝を祈っている」
婦好は軍に鼓舞するかのように、短く祝辞を述べた。
無数の観衆が羨望の眼差しを馬車に向ける。
多くの瞳に晒されて、サクは婦好の隣に居ることが気恥ずかしくなった。
進み続けると、前方にさらに多い人だかりが見えた。
観衆の中心部に、鼻と耳が異様に発達した巨大な灰色の動物がみえる。
「婦好さま、あの動物は一体……?」
「象という動物だ。サクは初めて見るか」
「象……あれが」
サクは文字の図象としてその形を知っていたが、実物を見たのは初めてであった。
その人は、巨大な動物の背にいた。
色鮮やかな布と、宝石が散りばめられた煌びやかな輿。
その衣服は喪服に装飾を施すようであり、まるで狂人である。しかし奇怪な姿でありながら象の背に乗る状況から、なぜか一目で身分を推察できた。
王である。
「今日は、微王のほうか」と、婦好が言った。
「微王?」
「ふたつの魂のうちの一人だ。裏と表。裏の王だ。表の王と区別して、われわれは裏の王を微王と呼ぶ」
微王は、目の下に派手な化粧を施していた。
光り輝く髪。
緩く流された髪の先には、翡翠がつけられている。
微王を乗せた象が止まった。
「天星を追っていたら、お主を見つけたぞ。わが妃、婦好よ。迎えにゆくべきはそなたであったか。いまや軍神たるそなたに会えるとは、慶兆ぞ。天地に祝福を」
微王の声は、独特の色香が漂っていた。
婦好が微王に返答した。
「微王よ。象に乗るとは、なかなか楽しそうだ」
「象の上からは、余と余の分身が作りし都が一望できる。乗るか、妃よ」
「乗ろう、サク」
「えっ?」
婦好は慣れた様子で、馬車からあっという間に象の背に乗り移った。
サクは婦好に持ち上げられて、象の背の籠に乗った。
「あはは、狭いな。サク、象の背はどうだ」
「高くて、すこし、怖いです」
「怖いか、あはははは」
象の背の籠からは、王都が一望できる。
古きと新しきが入り混じる、成長途中の都。
「婦好。この娘。巫祝、南の娘だな」
「そうか。微王はサクの父を知っているのか。確か、父は王の巫祝であったな。こちらは名をサクという」
「サクと申します。父をご存知ですか」
「余は父の血を識る者である。そなたは父親によく似ている。長くまっすぐな髪。十三夜の月の瞳」
微王は黒目のふたつある瞳を見開いた。サクは心の奥まで覗きみられるようである。
「そう、父親と同じことぞ。そなたも占いを嗜み、文字を識る」
「なぜ、それを……」
「余はだいたいのことは、わかるぞ」
「微王。文字を知ったことによる咎はあるか」と、婦好が問うた。
「咎? そんなものはないぞ。しかし、余はこの乙女を試したくはある」
「そうか。
巫祝の長が、文字を知った罰として私の軍にサクを寄越した。その報は届いているか」
「罰として……? ふっ、はっはっは! わが妃の軍は、生きながらにしてゆける死者の軍ということぞ」
婦好はため息をついた。
「まったく、失礼にもほどがある」
「乙女の軍は、沚馘とともに戦ったそうだな。余の耳にも届いている。獅子奮迅の戦い、余は見ておるぞ」
微王がなにかを思い出したように、瞳を一周させた。
「沚馘といえば、弓臤はどうした」
「さあ。そのうちに商王のもとへ戦果の報告に来るであろう」
「余も弓臤に会いたいぞ」
「いつになるか。弓臤は気まぐれだからな」
「そうか」と、微王は残念そうに肩を落とした。
「南の娘。婦好とともに、廟堂へゆこうぞ。余の裁可をくだそう」
象が行先の方向を変えた。
ふたりは、象の上から民衆に手を振る。
サクは都の景色をただ漫然と見つめた。
三人は安陽の中心部に位置する、祭祀のために造られた建物に到着した。気品漂う木造の廟堂。
家臣が微王と婦好の姿を確認すると、深々と頭を垂れるか、すれ違う前に跪く。サクは小さくなって婦好の後に続いた。
奥の部屋に進むと、黄金に輝く礼器が整然と並んでる。
その図象はどれも中央に猛禽類の大きな瞳があった。
神の宿る場所。
そこは見る者すべてが威圧されるように、作られている。
置かれている品々はどれも、おそらく身命を賭して作られているものだ。
微王は、酒の入った甕をゆっくりと回した。
「酒は偉大なる大地の神が創造せしものぞ。飲むか」
「もらおう」
微王が注いだ杯を婦好が受け取った。
「白き反物をもて」
微王は臣下に命じた。
「布もまた神が糸を紡ぎしものぞ」
やがて微王は反物を受け取ると、細やかな模様が施された短剣を腰から取り出した。
「文字を知る乙女よ。これは儀式ぞ」
サクの目前で乾いた笑みを浮かべる。
微王がサクに近づく。
「?」
次の瞬間、サクは微王の短剣で、右目の下を深く斬りつけられた。
「……っ!」
肌が、焼けるように、熱い。
サクの頰から血がぼたぼたと、溢れ出る。
微王はサクの頰に口づけをして、その血を吸った。
「微王よ、なにをする!」
婦好がサクを引き寄せた。
「美味であるぞ」
血を舐めた微王の瞳が左右に揺れた。
「ん……?」
微王が舌を転がす。
「娘の血から婦好の血の味がする。ふたりは、深い仲なのか?」
「微王が考えているような仲ではない」婦好が否定した。
「残念ぞ。良い仲ならば、いずれ三人で寝台にと思ったのでな」
「行いが過ぎるぞ、微王」
「ふはは、怖いな、婦好。天をも恐れぬ瞳ぞ。そう。そなたには力がある。乙女だけの軍をよく、あれほどまでに成長させた。余に刃向かったとして、そなたのために戦う者たちもおろう。例えば、沚馘軍」
「微王は、このわたしがそのようなことをすると思うか」
「わからぬ。しかしこの大邑商を統べる余といえども、ひとりの乙女のために滅びることもあろうぞ」
微王は、サクに向き合った。
「さて、乙女よ」
「余が最も愛するのは、血で書かれた文字ぞ」
「余のため、この反物に、その清き血で九十九字を書いてみせよ」
その笑みは狂気に満ちていた。
相手は、王であり、父の主であり、主人の夫である。サクに拒否権などはない。
巻かれていた布は解けて、床に白色を描く。
意を決して、サクは頰をつたう血を指先につけた。
「承りました」
サクは白い布に赤い血で文字を書きはじめた。
九十九字を書く。
頭に浮かべるだけならサクにとっては、取るに足らないことである。
一字目。
一、と一本の血文字からはじめた。
頰の傷から、意図せぬ玉模様がともに描きだされる。
数字から始まり、暦に関する文字、自然に関する文字、人に関する文字。
サクは考えつくままに、父から教わった文字の形を血で、指先で綴った。
三十一字を書いたところで、目眩がした。
血が足りない。
五十九字……、七十三字……。
くらくらと、サクの視界は廻るようである。
九十七字。
一文字目は既に赤黒く変色している。
九十八字。
血が少なくて、文字が掠れる。
九十九字。
張り詰めていた気が緩むと同時に、サクは倒れた。
「サク!」
婦好がサクを抱きとめる。
倒れるサクのとなりで、微王が満足そうに血で染まった布を身体に巻いた。
「この文字達に祝福を」
「娘よ、気に入ったぞ」
微王は続けざまに、なにかに憑かれたかのように言を発した。
「この世には、男と女が居る。人が産まれるのは女の胎からぞ。文字もまた女から産まれるのもよかろう」
「九十九字の次は、新しく作った文字ぞ。巫祝、南の娘たるサク。女に関する文字を、創造するがよい」
「今日から数えて二度目の十三夜。数は、十干と十二支をかけた百二十字。文字を作りて、余に進言せよ。その中から新しい文字を採択しようぞ」
「文字に、命を賭けよ。
魂を宿すのだ。
余を満足させる文字がひとつもなければ、その命はないぞ」
サクの身体は、婦好の両腕のなかで横向きに抱きかかえられていた。
婦好の優しい声が、サクの耳元に響く。
「文字をつくる。サクなら、できるな」
王の命令である。
サクに断ることなどはできない。
命をかけて新しい文字をつくる。
「お受け、いたします……」
婦好の腕の中で、サクは意識を失った。




