幻夢の都、安陽
季節は夏に差し掛かろうとしていた。
婦好とサクは、十数日をかけて移動した。
王の居る都、安陽へ。
安陽までの道は、鬱蒼とした木々が続く。
婦好軍は沚馘領内に駐屯させ、レイを筆頭に訓練させている。
いつ敵と戦っても良いようにである。
婦好とサクは木漏れ日の中を馬車に揺られていた。
「あの、婦好さま。安陽へ着く前に教えていただきたいのです。婦好さまは、商王がふたりいるとおっしゃいました。その意味を、教えていただきたいのです」
「商王の身体には、ふたつの魂が宿っている」
「ふたつの魂……?
ひとつの身体に、人格がふたつという意味でしょうか」
「その通りだ、サク。
お互いの魂が、お互いを神だと思っている」
文字は、王と神が対話するための手段。
かつて、婦好が用いた言葉である。
数十年前までは、文字はただの記号でしかなかったと伝え聞く。
文字がその意を伝達する手段となったのは、王が己に内在する人格と交流するためのものだったのだろうか。
「王は、改革者だ」
婦好は続けて言った。
「安陽は、商王が十年前に遷都を決め、以来、建設を続けている。十年経っても完成しない、未完の都。その意図するところは、行きすぎた前王の家臣団の権力を取り上げるためだ」
「前王の家臣を遠ざけるため、都を移したということでしょうか」
「その通りだ」
「王宮までは、まだ距離がある。わたしは寝る。サクももうひと眠りせよ」
婦好は馬車に座り、仮眠をとった。
陽の光がその長い睫毛と、整った顔の輪郭をより鮮やかに描き出す。
サクは失礼だと思いながらも、馬車に揺れるその寝顔を眺めた。
サクもその隣に腰かけた。
馬車は、不安定である。
揺れているうちに、柔らかな栗毛色の髪が、サクの肩にもたれかかった。
「ん」
無防備。
少し重さのある身体からは、いつもの華の香りがする。サクは己の胸の鼓動で主人を起こしやしないかと、心配になった。
沚馘西鄙での戦いが嘘のように、のどかな時間である。しかし、サクの心にはどこか暗い影を落としていた。
キビの死。
『取り乱すな』
婦好の言葉が、サクの血を巡る。
戦いに、死はつきものである。
間接的であるにしろ、サクもまた敵を殺めている。
しかし幾度も、後悔の念がサクを襲う。
──もし、あと一日でも、おとなしく援軍を待っていれば……。
キビは、サクの身代わりになったも同然である。キビの死は、己の死でもある。
溢れたら壊れそうな器に蓋をするように、その出来事をサクは記憶の奥底に追いやっていた。
肩から伝わる婦好の体温に、胸からこみ上げるものがある。
──生きている。だから、泣いてはいけないのだ。覚悟をしたからには。
「サク、安陽が見えてきました」
馭者のラクが安陽の到着を伝えた。
サクの思考は現実に引き戻される。
婦好はまだサクの肩で寝ていた。
安陽、未完の都──。
道のあちこちに資材が置かれている。
都というよりは、建設途上の城だ。
ここに、商王がいるなどと、誰が想像するであろうか。
サクは、偶然、灌漑設備の水路に腰を屈めた老人を見つけた。
その老人は水路の底のぬかるみに足を取られているようであった。
婦好は、まだ隣で寝ている。
「ラクさま、馬を止めてください」
サクは婦好の身体をゆっくりと馬車の籠に預けた。そして老人に駆け寄って尋ねた。
「あの、大丈夫ですか?」
「おうおう、すまない。水に足を取られてしまってな」
老人の足が水路に沈んでいる。
サクは老人の身体を引き上げようとした。脇の下を身体全体で支える。老人は見た目よりも重い。サクは、その細い腕でやっと持ち上げた。
日頃よりレイに習って訓練をすべきであったとサクは悔いた。
「やあ、ありがとう、ありがとう」
老人は何度も頭を下げた。
「いえ」
サクは老人の役に立ちたいと思った。
目を移した先の水路には、泥が溜まっている。
水の流れが悪い。
「水の流れが、角で滞っております。角の部分に布をかけ、水を誘うと良いかと思われます。このように、流れを変えてみてはいかがでしょうか」
そう言って、サクは下着の袖を少し破って水の流れを変えてみせた。
「ふむ。なかなか面白い考えじゃ」
老人は、布の目とサクの顔を交互に見つめた。
「しかし、応急的な考え方じゃの。その考えでは、一月も持つまい。わしが見ているのは、十年の処置ではない。百年の計でもない。千年の都を作る。もっと、大きく物事を見なければなるまい」
「千年の、都……」
「しかし、良い考えではある。お嬢さんは? なにか、水に関する仕事にでもついておるのかの?」
「わたくしは婦好さまにお仕えをしている、サクと申します。過去に用水整備などを行っていました」
「ほう。ほう。婦好さま。どちらの婦好さまか」
どちら、と問われても、サクにとっての婦好はただのひとりしかいない。
サクはすこしむっとなり、答えた。
「婦好さまは、婦好さまです」
「ほ、ほ、そうか、そうか。いずれ近いうちに、お会いしたいのう」
「あの、婦好さまにお会いしますか。いま、あちらの馬車に」
サクが婦好の馬車を指差した。そして再び老人を振り返ると、その姿はどこにもなかった。
「……?」
サクは老人を探した。
しかし見つけることができなかったので、仕方なく婦好のいる馬車へと戻った。
寝起きの婦好がサクに問いかけた。
「サク、どうした」
「いま、ご老人とお話していたのですが……、消えてしまいました」
「そうか? どこにも、おらぬぞ。
さては、サク。鬼神にでもあったか」
「鬼神……? いえ、たしかに、おりました」
サクは己の両手を見つめた。
老人の身体を持ち上げた時の、ごつごつとした感触は手に残っている。それは間違いなく、人間のものであった。
夢現を行き交うような気持ちのまま、サクはふたたび馬車に乗った。
「安陽は、祭祀の都でもある。これからも、不思議な出来事もあろう。なにせ、ここは神託者の都なのだから」




