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それぞれの思惑

「遅いぞ、弓臤(きゅうけん)!」


 婦好が弓臤を叱咤した。


「悪いな。しかし」


 弓臤は存在するほうの眼を(きら)めかせた。


「王の軍を借りてきたぞ」


 弓臤の背後には、およそ二千の兵。

 沚馘(しかく)の兵だけではない。商王直属の兵士である。


「兵士を増やすために、遅れた」

 弓臤が飄々(ひょうひょう)(のたま)った。



「婦好さま! 父、沚馘(しかく)が戻りました! わたしも参戦いたします!」

 勇んで城門から出てきたのは、嬰良(えいりょう)である。

 沚馘の本隊もまた到着したようだ。


 味方がみな、揃った。

「反撃の(とき)だ!」


「婦好さま! 婦好軍各隊を呂鯤へ集結させましょう!」

「もちろんだ! 弓臤、嬰良! 土方(どほう)軍後方及び鬼方(きほう)軍は任せた!」


 弓臤と商王直属の軍が丘を駆け下りる。

 土方軍後方は乱れ、崩れた。


「ははっ、やはり王の軍は強く心地よいものだ」


 弓臤は土方軍をじわじわと、しかし確実に(むしば)んだ。


 嬰良率いる兵士もまた、鬼方軍を抑える。


 鬼方軍の攻撃に当たっていた婦好軍の隊長が婦好のまわりに集まった。

 各方面に割いていた戦力を、婦好が思うままに使えるようになる。


 好機。


 援軍の参戦に、呂鯤が取り乱した。

「なぜだ?! まだ援軍は到着しないはず……!」


「呂鯤、なにを言っている? どこの情報だ」


「がはは! い、う、わ、け、が、な、い、だ、ろ、う!!」


 呂鯤が体勢を整えて、婦好に立ち向かった。



「レイ! リツ! ギョウアン!」


 婦好が叫ぶと、三台の馬車が呂鯤の馬車を囲み、そのまわりで円を描いた。


「なんの真似だ」



 三台の馬車の往来に、呂鯤の馬に隙ができた。


 レイとリツが呂鯤の馬車の車輪に両側から矛を入れ、絡ませる。

 呂鯤の馬車がもつれて、横転した。

 すかさず、ギョウアンが馬を矛で串刺しにする。


 婦好は紅い衣を脱いでサクに投げつけた。

「ぷはっ!」

 サクの視界は紅く覆われる。


 婦好は馬車の籠に足をかけた。

 そして、その身体を軽々と跳躍させ、ギョウアンの馬車へ乗り移る。


「ギョウアン! 我が身を助けよ!」

「ふん!」


 ギョウアンの弾力のある身体を使って、婦好は勢いをつけて跳んだ。

 サクが目で追えないほどの(はや)さで、婦好は呂鯤に向けて(えつ)を振り下ろした。


 戦場に肉と骨が断ち切れる音が響く。

 呂鯤の左腕はちぎれ、地に落ちた。 

 

「うぐぅっ……!」


 呂鯤の血しぶきが上がる。


「ん? 惜しいな。斬ったのは腕だけであったか」


「うがあああああ! いてえええ! 退却だああ!」


 呂鯤が叫ぶと、土方の兵士が呂鯤を庇うように囲った。


「呂鯤よ! その首も置いていくがよい!」


 婦好は呂鯤を助ける兵の首を二つ、三つと斬り落とした。

 呂鯤は悲鳴を挙げながら婦好から逃れた。


 婦好は肉と血の壁に阻まれて、呂鯤を討つことができないでいる。


 リツとレイ、ギョウアンの馬車もまた呂鯤を追った。


「待て! 呂鯤!」


 リツが叫ぶと、彼方より矛が飛来して、レイの馬車に刺さった。


「婦好の女兵士よ。そこまでだ」


 鬼公である。

 今回の戦いでは終始、呂鯤の進撃を後方から静かに眺めていた鬼公が動いた。

 

 鬼公はその馬車に隻腕となった呂鯤を乗せた。


「婦好! 我々の敗北である! 全軍、退却せよ!」


 鬼公が高らかに宣言した。


「鬼公よ! 逃すか!」


「ははは! 追いかけてみよ! わたしは逃げ足だけは、自信があるのでな」


 逃げる鬼公を、婦好軍が追う。

 

 土方軍と鬼方軍は、蜘蛛の子を散らすように、逃げ去った。


「婦好よ、追撃はそのくらいにしたらどうだ」

 弓臤が追撃の手を緩めた。



 サクは、戦場を見渡した。

 戦場に残される敵の幕舎、戦車、武具、死骸。

 血の、赤と黒。場を埋め尽くす酷い(にお)い。

 眼を覆う光景である。

 しかし、サクもまた直接手を下さずとも、この現状を作り出すのに、加担している。

 サクの善悪の感覚はすでに麻痺していた。



 目的は、成し遂げた。

 しかし、サクは痛切たる思いでいる。



 呂鯤と鬼公を逃したものの、援軍が着いてからは、圧倒的な戦勝であった。



 あれほどまでに切望していた勝利は、あっけなく婦好軍の手にもたらされたのである。



 ──援軍の到着があと、一日でも早ければ……!



 サクは天を仰いだ。




 ***





 沚馘(しかく)西鄙(せいひ)の防衛は、沚馘(しかく)軍及び婦好軍の勝利で終わった。


 宮城の軍議部屋には、沚馘(しかく)、婦好、弓臤、サク、嬰良が集っていた。


「婦好さま。遅れて申し訳ございませぬ、道中で問題がありました。

 しかし、息子、嬰良よ。よく無事だった。気が気ではなかった。城内のみなの無事は、婦好さまのおかげです」

 沚馘が涙ぐみながら頭を下げた。


「沚馘軍に間者が紛れ込んでいたのだ。

 それを探し見つけ、処罰した。

 加えて、王直属の援軍を呼ぶために時間がかかってしまった。

 婦好よ、いちばん良いところできてやったぞ。俺を(ねぎら)え」


 弓臤が戦場に遅れた理由を自信に満ちた顔で堂々と言った。

 この言を、婦好は彼の片側だけの瞳を観察しながら聴いていた。

 そして、ため息をついた。


「弓臤よ。遅れたことに、かわりはない。しかし、援軍は助かった。礼を言おう」


 弓臤は満足そうな笑みを浮かべると、腕を組み壁にもたれかかった。

 婦好は続けて言った。


「沚馘どの。ご子息、嬰良の働きはなかなかのもの。

 嬰良よ。若輩の身でありながら、よく城を守った。お前の名、王によく伝えておこう」


 婦好の言葉に、嬰良が発言した。


「ありがたき幸せにございます、婦好さま。

 ……あの、恐れながら、お願いしたいことがございます」


「なんだ、嬰良」


「もし、万が一、褒美を頂戴できるのなら、わたしには心に決めているものがあります」


「聞こう」



「サクどのを、いただきたく存じます」



 嬰良の言動に、沚馘と弓臤が目を見開いた。



「ほあっはっはっは!

 婦好さまのところのお嬢さんを気にいるとは! なんだ、我が息子ながら、やりおるわい」




「……サクと、二人きりで話をしよう。男どもは、しばし待て」



 サクは婦好に手を引かれて、奥の部屋へと入った。




 黒い(とばり)の内側に、婦好とサクだけが歩みを進めた。


 婦好はサクに背を向けている。

 その顔はサクからは見えない。


「サクよ」


 婦好がその低く美しい声を響かせた。



「もし、サクが望むなら、ここに残れ」



「お前の罪など、わたしから王に進言すれば、どうにでもなるのだ。

 もし、サクが望むなら、嬰良(えいりょう)の妻として愛され、子を産み、ここで生きるがよい。

 もっとも、それが女の幸せと考えるならば、だが」



「婦好さまは……」


 サクは、戸惑った。

 嬰良との会話のなかで、己の答えはすでに出ていた。迷いはない。


 しかし、どんな言葉を発すれば、目の前の人物に決意を伝えられるのか。

 伝えるべき言が胸のあたりで詰まる。



 サクの困惑を察したように、婦好はサクのほうへ振り向いて言った。


「そうだな。サクがいなくなると、わたしは困ってしまう。

 サクは、わたしの軍師だ。

 サクがいなかった頃に、戻れる気がしない。

 しかし、サクの祝福の機会を邪魔することはできない」



 目の前に立つ人物に、ここまで言わせてしまったことを、サクは恥じた。



 ──なんて、自分はあさましいのだ。もし欲しい言葉があるならば、先にこちらから与えるのだ。





「婦好さま。

 わたしは、嬰良さまがわたしに何を求めているかがわからぬほど、愚かではありません。

 わたしは、いつか枯れてしまうであろう花ではなく、己の才を愛する方のお側にいたいのです」





「あなたの、お(そば)に」







 ***





 無骨な男たちの前に、婦好とサクは現れた。


「嬰良よ。すまない」


「サクは、わたしのものだ」

 婦好は、サクの長く黒い髪に口づけをした。



「ほあっはっはっは! 嬰良よ! ふられてしまったなあ! ほあっはっはっは! 孫の顔が見れずに残念じゃわい! ほあっはっは!」


 沚馘(しかく)が高らかに笑った。

 弓臤(きゅうけん)は、終始苦虫を噛み潰したような顔で、その様子を見ていた。


 嬰良が、肩を落とした。その後、顔を上げて宣言した。



「わかりました。しかし、わたしは、あきらめの悪い男です」



「サクどの。婦好さまに飽きられたら、いつでもわたしのもとをお訪ねください。婦好さまがサクどのを手放すのを、待ちます」



「あはははは! 嬰良よ、正気か? その頃はきっと、わたしもサクも老婆だ! あははははは!」

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