呂鯤討伐
沚馘西鄙内に、婦好軍が集結した。
婦好はひとり全軍の前に立っていた。
婦好の髪が風に揺られてたなびく。
その姿は静かな輝きに包まれ、まるで神が宿るようであった。
「呂鯤の乱行。許せぬ」
「たとえ敵の罠であろうとも、寡兵であろうとも、わたしの全身を流れる血が命じている。呂鯤を誅せよ、と」
「みなのもの、異論はあるか」
婦好は隊長ひとりひとりの目を見た。
想いは、みな同じだ。
味方の軍は、寡ない。
戦闘に参加できるのは千に過ぎない。
対する敵軍は、およそ二千。
沚馘軍の本隊はまだ到着していない。
援軍も、まだない。
しかし、たとえ不利でも構わなかった。
必ず、呂鯤を撃破する。
「婦好軍、出撃せよ!」
***
婦好軍は非戦闘部隊を残して、全軍が出陣した。
沚馘西鄙本陣の守りには、嬰良を残す。
サクは婦好の馬車に乗っていた。
婦好軍と呂鯤の軍が衝突する。
しかし──、
呂鯤軍も婦好軍の攻撃を予想していたのか、その守備は堅い。
婦好軍はなかなか攻めきれないでいた。
『呂鯤を撃破する』
全軍の想いに反して、それは容易ならざることであった。
戦況は、苦戦。
呂鯤が婦好の前に出た。
「がはははは! 部下の死に激昂して全軍で出るとは! 婦好よ! 普段、神の使いのようにふるまっているが、まだまだお前も甘い! 小娘ということだな!」
「我が軍の進撃は神の怒りによるもの。呂鯤よ。お前を必ず誅せん!」
「がはははは! 挑発に乗るなど、可愛いやつめ! 先ほど殺した巫女も、昨晩はなかなかどうして! 可愛く泣いていたぞお! がはははは!」
「……!」
「口を慎め、呂鯤よ!」
婦好は黄金の鉞を呂鯤に向かって振り下ろした。
呂鯤は斧でそれを受け止めた。
「なあ、婦好。
城壁に沚馘の旗を掲げていたな。
俺たちに沚馘本隊の到着を欺きたかったのだろうが、俺は知っているぞ。
沚馘本隊の到着は、まだ、ない」
ぎりぎりと、お互いの金属が軋む音が響く。
「なぜそう言える」
「がはははは! 言うわけがないだろう。
婦好軍の女たちは俺たちを騙すために、旗を寝ずに作ったのか。いじらしいな。
がはははは!」
──裏切り者がいる。
以前婦好が言っていた言葉が、サクの脳裏に蘇った。
「がははは! 沚馘の本隊到着を前に、全軍で城から出てきてくれるとは、嬉しいぞ、婦好よ! なにせ、こちらの兵糧は残り少なかったからな! 今日で決着をつけるぞ! あの巫女を処刑したのは正解だった! がはははは!」
キビの処刑は、婦好軍の全軍を炙り出すための呂鯤の罠。
劣勢。圧倒的な兵数を前に、婦好軍は押されていた。
──キビの仇を討つ。
ただ、それだけなのに、現実はひどく厳しい。
──想いだけが強くても、現実には、うまくいかないものなのか。
あがいても、力の及ばないことが、もどかしい。
──キビさま。
──どうか、あなたの無念を……!
サクは、馬車の片隅にキビと作った城を守るための泥団子を忍ばせていた。
サクは泥団子を呂鯤に向かって投げた。
「わたしは……! あなたを、許さない!」
「おいおいおいおい、また会ったな。青の巫女よ。なんの真似だ」
サクはあるだけの泥団子を投げ続けた。
サクには剣を交えるほどの力も才もない。
なにもできない自分が、サクは許せなかった。
「サク」
婦好がサクをなだめようとした瞬間、投げつけた泥団子のひとつが、呂鯤の馬に当たった。
「おぉっ?!」
呂鯤の驚いた声とともに、馬の一頭が嘶いた。
「あはは! 馬に命中したぞ、サク!」
呂鯤の馬車が制御を失って暴走する。
婦好がその様子を愉しんだ。
「滑稽だな! 呂鯤よ!」
サクが呂鯤の馬を狂わせたところで、依然劣勢であることに、変わりはない。
呂鯤に隙ができたゆえに、サクは周囲を見渡した。
高台から見下ろす戦場とは違い、兵が遮って一部の動きしか確認はできない。
おそらく、戦況は互角。
もしくは、婦好軍の劣勢。
不利だ。
軍を動かす者として的確なる判断をするならば、退却が上策である。
──悔しい。
サクが婦好へ撤退を進言しようとしたその時であった。
サクは丘陵のうえに黒い塊を見た。
「あれは……?」
光が反射する丘のうえに立つ、黒い旗の軍団。
戦いの熱気で、視界が揺らめいてよく見えない。
数千の兵士。
敵か、味方か。
サクは目を凝らした。
「婦好よ、待たせたな」
大軍を引き連れた隻眼の将が、かつて婦好が駆け降りた山岳に現れた。
左瞼にかかる長い髪。
飾り気のない、くたびれた衣服。
軍師、弓臤である。




