解呪の儀式
「サクを、離しなさい!」
キビが呂鯤に向かって、泥を投げつける。
泥は呂鯤の顔に当たった。
「うぐっ……。なんだこれ、くせぇ」
呂鯤が怯んだ隙に、サクは呂鯤の指を思い切り噛んだ。
「何しやがる!」
サクは身体ごと突き飛ばされたが、痛みに耐えて叫ぶ。
「キビさま! 逃げますよ!」
「逃げなさい! サク!」
サクが顔をあげると、キビは呂鯤の身体を後ろから抱きとめていた。
「サク! 約束どおり、第八隊を救わないと許さないわよ」
キビはサクをまっすぐに見た。
その眼には、覚悟が滲んでいる。
「……うふ、あなたのおかげで、楽しめましたわ」
キビは、呂鯤にしがみつきながら、城壁の縁で身体の重心を後ろに倒した。
ふたりは人の身長の五倍はある城の壁に沿って、真っ逆さまに落ちてゆく。
「あ?」
落下するふたつの影に、呂鯤の声だけが残された。
「キビさま? キビさま!!」
回廊に、二人の姿はすでにない。
キビと呂鯤のいた場所には、雨粒だけが降り注ぐ。
サクは城壁の上から、地に落ちたであろうキビの姿を確認しようとした。
しかし残された数名の敵兵がサクを狙う。
「むすめを捕らえよ!」
サクは無我夢中で、雨の中を走った。
雨なのか。汗なのか。涙なのか。
顔を、全身を、いく筋もの水滴がサクを過ぎてゆく。
──キビさま、キビさま、キビさま、
キビは城壁の上から落ちた。
キビの命はあるかどうか。
仮に生きてたとしても、敵の手の内に捕らえられてしまっているであろう。
──まだ、第八隊を救ってはいないのに……、ようやく心が通じたと思ったのに……!
サクは、この時になってやっと状況を理解した。
キビは、サクを守ったのだ。
「キビさまが……。いえ」
「外城の回廊に、呂鯤の兵が侵入いたしました! 急ぎ、出立を!」
「また、どこか城郭が雨で崩れているかもしれません。敵を駆逐後、急ぎ、修復を!」
「第一隊、行きます!」レイが出立した。
「第九隊も、修復へ向かおう」セキもまた向かった。
「キビがどうした」
厳しい面持ちの婦好が静かなる声でサクへ問いかけた。
「キビさまとわたしは、城壁の回廊で、呂鯤の不意打ちに合いました。キビさまは、呂鯤に捕らえられそうになったわたしを守って、城の、上から……う」
サクは、取り乱した心を鎮めた。
「すみません。キビさまは呂鯤とともに、外壁の回廊から落ちました」
「そうか」
婦好が表情を変えずに、サクへ近づいた。
「サクよ。よく、戻ったな」
サクの肩を、婦好の温かな掌が包んだ。
「……はい」
***
翌日。
清涼なる空に、白き球体が昇る。
曇りなき、快晴。
「おおおおおい、ふこおおおお、処刑のじかんだああ! でてこおおいいい!」
朝の戦場に、呂鯤の戯けた声が、響き渡る。
婦好と隊長たちは外城の回廊から、戦場を見下ろした。
城門の前で、呂鯤が荷車とともに立っていた。
「呂鯤、なんの真似だ」
「がっはははははは! きたな、婦好! 良いものを見せてやるぞお」
「呂鯤よ、城壁から落ちて死んだのではなかったのか」
「がははははは! 俺はそんなに弱くはない! いっしょに落ちたやつも」
「このとおり、生きておるぞ、ま、だ、な!!」
「……!」
呂鯤の隣にあった荷車の布が取り払われると、荷台に、キビが居た。
キビの全身は血で赤黒く染まっている。
両手足があるはずの場所に、膨らみが、ない。
衣服が、不自然に乱れていた。
あの、意地悪で気の強い人格は失われてしまったのだろうか。その瞳はまるで魂が抜けたように、虚ろだ。
キビが昨晩何をされてしまったかは、誰の目にも、明らかだった。
「みな、取り乱すな。相手の狙いはこちらを乱すことだ」
婦好が、敵に聞こえぬよう、味方に命じた。
呂鯤は斧を回しながら、キビの荷車の周りを三度ゆっくりと歩く。
「いにしえより、敵方の巫女を殺すは慶事!
敵の呪いを解くには、敵の巫女を殺す!
これぞ、ふるきより伝わる作法だ!」
そして天を戴くように両手を広げて叫んだ。
「我が土方の神の名において、婦好の巫女を処おおおす!
忌々しき巫女の呪いよ、解かれたまえ!」
「がははははははははははは」
呂鯤は笑いながら、キビを、キビだった身体を、斧で幾度も殴打した。
サクは、もう、見ていられなかった。
しかし、ここで泣けば、取り乱せば、相手の思惑に乗ることになる。
サクは、目に力を入れて、ただ、唇を、噛み締め続けた。
耐えるサクの隣で、彼女の主人が冷々たる怒気を纏っていた。
その顔を見ずともわかる。
まるで雷鳴が轟く前触れのような、覇者の威。
「呂鯤よ。残念だったな」
「その血を浴びたものは、永遠を苦しむことになることを覚えよ」
「天地の神々よ! 呂鯤の残忍を見たもうたか」
「我らの闘いは、神々の代理戦争である。このような、神への礼儀に恥じる行い、天が許すはずがない」
「呂鯤よ! 今日よりは天罰が下るのを恐れるがよい!」
「がははははは! 俺は、商の神などは恐れぬ!! がははははははは!」
婦好軍は、静かなる怒りに包まれた。




