商王の妃『婦好』
サクは馬車に揺られていた。
老臣との約束のとおり、商王の妃である婦好のもとへ仕えるためである。
父と別れてから、六日が過ぎた。
――お父さまはなんと言いかけたのだろう。
馬車の籠に、頭を預ける。
道は平坦ではない。車輪は大きな石に捉えられ、幾度も跳ねる。
サクの身体はすでに何度も馬車の籠に打ちつけられた。
臀部の感覚はすでに麻痺している。
――これからどのような方にお会いするのか。お父さまの命は助かったのか。
サクは目の前の女性におずおずと問いかけた。
「婦好さまとはどのような方でしょう」
「懐の深いお方です。どうか、安心なさって」
目の前にいる女性は、サクの案内役の女兵士である。
目尻の下がる、ふくよかな女性だ。
婦好軍のことはサクも父から聞いていた。
商王の王妃が女性のみの兵士を率いる軍隊だという。
王妃の名は、婦好。
女性でありながら大邑商の将軍のなかで最も商王に信頼されている。
――婦好軍に入る。
サクは、己の非力な腕を眺めた。
武術を修めているわけではない。
十四になるまで父より占卜のための学問を教わるが、家からはほとんど出たことはない。
ゆえに、身体を動かすことは苦手である。
――わたしのような者が役に立つのだろうか。兵士として戦うのだろうか。文字を覚えたことは死を招き、父はわたしを救ったが、単に死に方が変わっただけだろうか。
戦場への不安はぐるぐると巡り続ける。
サクは深いため息をついた。
「この丘の先を抜けると、婦好軍の本陣があります」と、ふくよかな女性はにこやかに告げる。
「もうすぐですね」
サクが返事をしたあと、しばらく沈黙のときが流れる。
左右に揺れる馬車の中で、サクは睡魔に襲われた。
六日ほどかけて移動を続けていたために、サクの体力は限界だったのである。
サクはいつのまにか、うとうとと、深い眠りについていた。
サクが気がつくと、馬車が止まっていた。
さきほどまで会話をしていた、目の前の女性の首が失われている。
力任せに抉られたのか、頭部のあった首回りには皮膚と骨が残っていた。
「……っ!」
馬車が血で溢れている。
サクの衣服にも血がじわじわと登るように染みていた。
「起きたか、おとめよ」
髭面の男が馬を操りながらにやりと汚らしく笑った。
――盗賊……? 四人、五人? いいえ、もっと多い……!
盗賊らしき集団に囲まれている。
彼らの髪は乱れ、着たきりの粗野な裾からは日焼けした肌がむき出しとなっている。
「この馬車とともに、お前ももらおう。若い女なら使い道がありそうだ」
サクは急いで馬車から降り、逃げようとした。
しかし、衣服に付着した血糊が、馬車の籠に貼りついてサクを離さない。
(……誰か!)
サクが叫ぼうとしたそのときであった。
「その乙女は、わたしのものだ」
清涼なる声が、澄んだ空に響く。
かの人は、乾いた丘陵の頂に現れた。
陽の白さを纏っていて、サクからはぼんやりとしか見えない。
紅の馬車が丘を駆けおりた。戦車と同じ色の衣を纏った人物が、サクのほうへ向かってくる。
空に鈍い音が満ちた。
いつのまにか髭面の男の身体は馬車から投げ出されていた。
黒曜石の耳飾りの女兵士が、賊を矛で一撃のもと、薙いだのである。
人間から流れ落ちる液体が、サクの視界を覆ったと思ったのもつかの間、黄金の刃物が空を切り、朱色の飛沫を散らす。
サクの身体は麗人の腕に抱かれていた。
紅色の裾が風を含んで華麗にゆれる。
その人は栗毛色の髪に薄茶色の瞳をしていた。
「そなたが、サクか」
「はい」
まるで時が止まったかのようである。サクは緊張のあまり、短い返事しかできなかった。
その様子に、強く美しい人が、ふ、と笑みをこぼす。
「間に合ってよかった」
麗人はまるで蜜のように甘い声を奏でて、サクを優しく馬車のなかに保護する。
サクの胸元は何者かに縛られたかのように苦しくなった。
「ここに居なさい」と言うや、サクへ向けた優しさとは一転して、将としての気でその場を制す。
「あの」
サクの身体から、か細い声がやっと出た。
瞳を合わせると、深紅の耳飾りが揺れる。
「わたしの名は、婦好」
「あなたが、婦好さま」
味わったことのない胸の鼓動を抱えて、サクは己の名を伝えた。
「わたくしは、サクでございます」
「サク。禁を犯した巫祝の乙女よ。話には聞いている。これより、わたしに仕えるがよい」