闇夜に潜る
「まったく、キビの噂好きもほどほどにせよ」
リツがあきれた。
「だってえ、女ばかりだもの。若い男女がどうなるか。これ以上面白いことはないわよ」
キビの心変わりに、リツが大きなため息をついた。
「うふ、応援してるわよ」
キビはそう言ってサクの肩に手を置いた。
嫌悪されていた状態から一転、恋に対する好奇心のなせることなのか。キビはサクに好意的だ。
「キビさま、教えていただけますか。毒とはなにをお使いになるのでしょう」
「うふ。あなた、まえに下水整備をしていたでしょう。それなら、わかるんじゃない?」
「まさか……、汚泥」
「そ。薬草もあるけど、数は少ない。泥なら無限に使えて、攻城戦には最高の材料だわ。闇夜に乗じて、敵の食糧に混ぜるのよ」
「敵地に忍び込むなど、危険ではありませんか」
「平地での戦いだとできないわね。でも、ここは人家の影がある。それに、もとは味方の地」
「わたしも行く」と、リツが遮った。
「リツさま?」
「サクは弱い。不安だ。婦好さまも、わたしについていけと命じられた。問題はないだろう」
「うふ、なら、決まりね。今夜行きましょう」
「兵糧庫の場所は、わかっているのですか」
「敵地なら危ういけど、ここはもともと沚馘の土地。そうね、これから嬰良さまのところへ聞きに行こうかしら」
キビの試すような眼差しをサクは見ないようにした。
「……。沚馘の方なら誰でも良いかと」
「あら、だめよ。面白くないじゃない。サク、あなたも一緒に行きましょ」
「キビ……、遊びではないんだぞ」
「うふ。堅いわねえ、リツは。ちょっとくらい、いいじゃない」
***
「敵の兵糧庫に、毒を仕込む?」
従者とともに城内の見回りをしていた嬰良を、キビが強引に引き止めた。
「はい。おそらく敵は奪った兵糧をそのまま使っているかと。それで、場所を教えていただきたいのです」
「サクどのも、行かれるのですか」
「はい」
「そんな危険なこと……! それならわたしが行きましょう。サクどのはここでお待ちください」
嬰良がサクの身を案じて、作戦を申し出た。
しかし。
──嬰良が動く?
嬰良の発言に思わずサクは諫めた。
「嬰良さまはいわば、総大将。闇に紛れて行動するなど。決して、なりませぬ」
「婦好さまもなんというか」
リツもまたサクに続いて否定した。
「いいえ。道案内が必要でしょう。守らせてください、サクどの」
そのとき、嬰良の肩にかかる紫色の衣はふわりと地についた。嬰良が膝を曲げてサクの手を取ったのだ。嬰良のさわやかな仕草に、サクは戸惑いを隠せなかった。
しかし、ここで退いてはいけない。
「いけません。嬰良さま」
サクはぴしゃりと言った。
「嬰良さまになにかあれば、われわれの敗北です。それに、その上品なお召し物は人目を引き、目立ちます。女だけのほうが安心です」
「……しかし、あなたのことが心配です」
「いけません。いかなる理由であれ、嬰良さまはここを動いてはなりません。上に立つものの自覚を」
サクと嬰良がしばらく、見つめあった。
「……そうですね。わかりました。サクどのの言うとおりにいたしましょう」
サクは安堵した。
「うふ、やっぱり愉快だわ」
キビは終始、頬に手をあてて笑みを浮かべていた。
こうしてサク、キビ、リツの三人で忍び込むことになった。
***
敵地につかう毒の準備を終えた。
深夜。
闇夜に乗じて三人は行動を開始した。
松明がないと何も見えない。
足元は、まるで黒い沼だ。
「火は、持ち歩かないのですか」
「うふ。敵にみつかりたいの? わたしは夜目がきくの。お互いの存在がわかるように蓬の香を焚いておきましょう。それから、合言葉を決めましょう」
「『夏』といったら、『陽』というのよ」
「夏、陽」
三人は嬰良から教わった隠し通路を開け、外城へと忍び込んだ。
暗闇のなか、建物の影に隠れて静かに進む。
嬰良の言われたとおりの場所に兵糧庫は存在した。ここまでは、敵に見つからずに済んでいる。
楼台に火を灯す。
キビは淡々と、あらかじめ用意していた毒を兵糧庫に仕込んだ。サクはその作業を食い入るように見つめた。
「この中途半端に空いているものだけにしましょう。あと、上の方に積んであるものも。ここを奪還したら、下の方の食糧は使えるから」
「こんなものが、本当に効くのか?」
リツが疑いながら手伝った。
「さあね」
「キビさまは、いままで、こんな危険なことを?」
「そうね。わたしは産まれてからずっと、媚女だったから」
キビは手を動かしながら、語った。
「媚女?」
「敵を呪う巫女のことを、媚女と呼ぶのよ。巫女にもいろいろいるの。良家の長女だったり、売られてくるものや、奴隷だったり……。わたしは赤児の頃から、戦場で生贄になることが決まっていた。わたしの育った邑は弱くて、大邑商に生贄の乙女を捧げることで安寧を得ていたの。わたしも媚女として戦場に出るまで、いろいろなことを仕込まれたものよ」
「いろいろなこととは、どのようなことですか」
「うふ。教えない。今日のような、工作活動も含まれるわ。優秀な者は諜報活動もするけど、わたしは邑によって戦場での生贄と定められていたから。でも、偶然のめぐり合わせで婦好さまに仕えることができて、本当に命拾いしたわ」
「産まれたときから、生贄として育つなんて……」
「そう。ひどい話よ。だから、ぬくぬくと育ってきたあなたが、大嫌い」
「……。わたしも、大嫌いです」
「あら、いい度胸ね」
「はい。わたしはその風習が、大嫌いです」
キビのきつねのような目が見開かれた。
「……そうね。ろくな風習じゃないわね」
「……しっ。おしゃべりをしている場合では、なさそうだぞ」
ふたりの会話を、リツが制した。
兵糧庫の外に、足音が迫る。
キビは火を消した。
おそらくは、敵の見回りの兵士だ。
敵兵に見つかれば危うい。
暗闇のなかで、サク達は息を潜めた。
敵が過ぎ去るのを待つ。
その間、黒く覆われた視界に、キビから蓬の香りだけが漂った。
その香りはなぜか懐かしく、サクの緊張を解きほぐしていた。
「……!」
気のゆるみからか。
サクは壁にぶつかって音を立ててしまう。
「だれかいるのか」
敵兵の声が、闇に響いた。




