天にたゆとう
「婦好よ、奇襲とはそなたらしくない。
神の礼儀とやらに反するのではないか」
鬼公の声は透きとおるようだ。
婦好とおなじだ。
天に愛される声というものがあるのなら、ふたりのような声をいうのであろう。
「開戦を仕掛けたのは、鬼公、そちらであろう。始まっている戦いに、遠慮などは無用である」
「それもそうか」
ふたりは敵ながら、どこか、旧知の友に声をかけるようである。
「それにしても、婦好よ。わざわざ退路のない進軍とは、読みがはずれたか」
「わたしは天の導くままに、ここにいる。天は必ず我らを生かすだろう」
婦好はそれが当然のことのように、堂々と言い放った。
婦好の姿は、まるで神の使者が輝きを纏うようだと、サクは思った。
婦好が続けた。
「我々の戦いは、神を楽しませる余興に過ぎない。鬼公よ、くるがよい。遊んでやろう」
「いや、戦いは不得手でな。観戦していよう。張達よ!」
張達と呼ばれた将軍が前に出た。
張達の参戦に、第五隊隊長のギョクが名乗りをあげた。
「婦好さま! この者はわたし、ギョクにお任せください!」
「おおう、さきの戦いで一騎打ちをしたものではないか!」と、張達が勇んだ。
「張達とやら。第五隊隊長であるこのギョクが相手だ!」と、ギョクが応じた。
張達の馬車が突進する。
馬車と馬車が近接し、ギョクと張達のふたりの戈が幾度となくぶつかり合った。ときには馬の方向を変え、ときには跳躍しながら、お互いが相手の隙を窺った。
両軍が、入り乱れて闘う。
軍略もなにもない、混戦。
サクは、すでに万策が尽きている。
──いま、おのれにできることはなにか。
「ラクさま、敵の鼓を打ち鳴らし続けてください」
サクは、呂鯤に乱された着物の襟元を整えた。衣はすでに着崩れていて、すこしの手直しでは、もとにはもどらない。
サクは戦場で、帯を解いた。
支えを失った着物の裾が、足元まで長く垂れる。
サクは青い衣を引きずりながら、馬車から降りた。
「サク、なにを……?」
レイが目の前の敵を二人、三人と斬りつけながら、サクに問いかけた。
生命を奪い合おうとする喧騒のなかで、サクはゆっくりと静かに城門の前に立った。
そして城門へ向かって、神へ捧げるための舞を踏んだ。
ラクの鳴らす鼓の音に合わせて、サクは青い衣と脱いだ帯を風に靡かせた。
──婦好さまは、神は必ずわたしたちを生かす、と宣言された。それならば、それを後押しするのが、仕えるものの役目。
サクが舞うことには意図があった。
ひとつは、敵の目をひき、油断させること。
ふたつは、敵の巫女の呪いを恐れる心を利用すること。
さらに、父よりの教えがサクの脳内に響く。
──戦いに勝つには、天に好かれること、と。
***
血で血を洗う闘いが繰り広げられるなか、死者を葬送するように、ひとりの少女が舞う。
奇妙な時間が続いた。
サク自身もまた、自らの行動が吉とでるか凶とでるか、確信はもてなかった。しかし、ただ矛や戈の往来を見ているだけでは、天に恥じる気がしたのである。
「なるほど、余興だな」
口元に手を当てて、鬼公がつぶやいた。
「ううむ、気味の悪い……! かの巫女を殺せ!」
敵の将軍である張達が叫んだ。
張達の号令に合わせて、敵兵がサクを襲おうとする。
「させるか!」
第五隊隊長のギョクと、第一隊隊長のレイが、サクを守ろうと奮闘した。
そのとき、サクの耳に懐かしい声が届いた。
「サクちゃん!」
友の声である。
しかし、友は、この奇襲作戦に参加していないはずである。もし声の主が友だとしたら、別働隊がこの場に居ることになる。
サクは耳を疑った。
死地のなかでの空耳かとも思った。
「サクちゃん!」
聞き間違いではない。
シュウの声である。
「いま、門を開ける!」
続いて聞こえたのは、第九隊隊長のセキの声だ。
土壁と城門にわずかな隙間がある。顔は見えないが、かすかに遠く、城門の中の者と会話ができる。
サクは城門の隙間に駆け寄り、できる限りの声を張った。
「シュウ! セキさま! 城門の中にも敵がいるのではないのですか?」
「ああ! 周りは敵だらけさ! しかし、ギョウアンさま率いる婦好隊が、我々をここまで連れてきてくださった!」
セキの頼もしい声が、厚い土の壁を経てようやく届く。
「婦好隊……!」
「鼓の音を頼りに、ここまで来たのよ」
「今、門を開ける! サク! さがりな!」
金属が軋む音がした。重たい音を響かせて、門が開いた。
門の外にいた婦好軍は、中にいた婦好隊、第八、九隊と合流した。
「セキ! ギョウアン! 待っていたぞ!」
婦好が嬉々とした。
ギョウアンと呼ばれた女性は、呂鯤に引けを取らないほどの巨体である。重さは婦好の二倍はありそうだ。
鐘のような胴体に、丸太のような腕。糸のような細い目に、ぼってりとした唇をしている。
「ギョウアン、さま……?」
驚くサクに、レイが言った。
「あら、サクはギョウアンに会うのは初めて? まあ、ギョウアンは寝てばかりで、軍議にも参加しないものね」
「ギョウアンは、婦好軍で最も強きものだ」と、リツが説明を加えた。
「もっとも強きもの……!」
「ギョウアンは婦好軍の切り札。さあ、合流は成った。全軍、進軍せよ!」
婦好が号令した。
内城を目指す婦好軍の最後尾を、ギョウアンが守った。ギョウアンは婦好軍の壁となり、ふん、と息を吐くと、敵を一掃した。
「逃すか!」
張達は追撃しようとしたが、鬼公に制された。
「よい。婦好は呂鯤を生かした。我々も婦好を生かそう」と、鬼公が言った。
婦好軍は一丸となって、進んだ。
外城にも、敵兵は多く配置されていた。
婦好軍は、外城の敵兵を撃破し、内城の城門下にたどり着いた。
門が開いた。
今度こそ、味方の陣営だ。
婦好軍の歩兵が内城の城門を素早くくぐり抜ける。馬車もまたそれに続いた。
皆が門をくぐるその間、ギョウアンだけが、門の手前で敵の侵攻を防いでいる。
「ふこうさま、もんを、しめて、ください」
ギョウアンが、素朴な声を響かせた。
「わかった! しかし、ギョウアン! 必ず生きてもどれ!」
婦好がギョウアンに信頼を寄せながら叫んだ。
「かならず」
「ギョウアンさま!」
サクが振り返ると、ギョウアンの大きな背だけを残して、内城の門が閉じられた。
城門を閉める音が響く。
沚馘西鄙、内城。
ここはもう、敵地ではない。
──命がある。奇跡的だ。
サクは、ひとまずは安堵した。
「ギョウアンさまは、無事に戻られるでしょうか」とサクが問うと、
「ギョウアンは強い。一人だけなら、むしろ問題ない。信じよう」と、婦好が言った。
サクは戦況を省みた。
敵に与えた打撃も大きいが、婦好軍が受けた損害も大きい。
──勝利ではない。
多数の死傷者。
車馬数十の損失。
そして、第三隊隊長の死。
呂鯤に両断された第三隊隊長の身体が、サクの脳裏に再び浮かぶ。
第三隊に残された兵の喪失感は、目に見えるようであった。
しかし、感傷に浸る暇はない。
戦いの後始末もまた、軍略を握る者の役目だ。
「婦好さま、よく、お越しくださいました」
若い男の声だ。
若者がふたりの従者を連れて、婦好の前に颯爽と現れた。
彼は丁寧に礼をした。サクとは同じ年頃だろうか。上品な紫色の防具を身につけた、さわやかな面持ちである。
「そなたが、沚馘どのの三男か」
「さようでございます。嬰良と申します。王妃にお目見えでき、光栄です」
「ここまで、よく耐えた。沚馘どのは明日か明後日には到着する。それまで、ともに戦おう」
「ありがたきお言葉、いたみいります」
「時が惜しい、軍議に入ろう。わたしはこの者を連れてゆく。参謀の、サクだ」
サクは、頭を下げた。
白い襦袢の上に青の衣を引きずっているサクの姿を、嬰良は見た。
サクが顔をあげると、彼は整ったかたちの瞳を大きくした。そして息をのんだ。
嬰良はサクと視線を交わらせながら、小さな声を発した。
その言葉を、その場にいた誰もが聞き逃さなかった。
「美しい……」、と。




