窮地の献策◇
呂鯤の大きな影がサクを覆ったと思った瞬間、サクは首のうしろの襟元を呂鯤に掴まれてしまった。
「あうっ……!」
「サク!」
サクを救おうとして、レイが呂鯤に向かって盾を投げた。しかし呂鯤の体躯は、いともたやすくレイの盾を弾いた。
「がはははは! おれ好みの女子を手に入れたぞ」
サクは呂鯤に捕らえられた襟元を引きちぎろうとして、必死に足掻いた。しかし、呂鯤の手はサクの襟を強く握っていて離れなかった。
「おうおう、暴れるな。あとで可愛がってやるから。しかし、このように暴れられては、戦いには邪魔だな」
「死んでろ」
次の瞬間、サクの身体は呂鯤の幕舎へ向かって頭から投げられてしまった。
頭の先の幕舎は木製である。
ぶつかったら、おそらく、死ぬ。
身体ごと宙を舞ったサクは死を覚悟した。
──ああ。もう、なすすべがない
サクの意識もまた、空に浮かんだ。
浮遊感とともに、風が吹いたような気がした。
──懐かしい、華の香り。
死とは、このように甘い香りがするものなのか。
サクは、己の生命を疑った。
おそるおそる瞳を開けると、サクはあたたかな腕の中にいた。
栗毛色の髪。鳶色の瞳。
サクが、己の主人と決めた人である。
「婦好さま……!」
「サクよ、危ないところであったな」
馬車に乗ったリツが、疾風のごとく呂鯤を戈で攻撃する。体勢を整えたレイもまた身体を跳ねさせるようにして呂鯤に立ち向かった。
リツの戈が呂鯤の頭上をかすめる。それをかわした呂鯤を、レイが速さで突く。
呂鯤は攻勢から一転、防戦にまわった。
「ふん! 二対一とは、卑怯な!」
「ふふ。連携こそ、戦いの基本。卑怯なんかじゃないわ」とレイが飄々と言った。
レイとリツの攻撃のあいだで、婦好もまた黄金の鉞を構えた。
呂鯤の斧と、婦好の鉞が交わった。
「呂鯤よ。ひさしぶりだな。わたしの兵をずいぶん可愛がってくれたようだな」
「がはははは! おんなの敵ばかりだと思ったら、婦好だったか! 相変わらず、小賢しい戦いをする!」
「呂鯤。おまえは相変わらず、酒のにおいがする。昨日も、大酒を飲んでいたのか」
「がはははは! 違いない! おかげで、すこぶる気分が悪い! しかし今日こそ、おまえらを一掃してやる!」
「呂鯤。忠告する。酒の匂いが過ぎる。戦場にあっても、身を清めたほうがいい」
「なんとでもいえ! がはははは!」
呂鯤が吼えた。
火花が散る。
会話の内容に反して、両者の重い一撃が、気を震わせた。
婦好と呂鯤が交戦する隙に、サクは近くにあった第三隊隊長の馬車を見つけた。
「レイさま! こちらの馬車を!」
主人を失った第三隊隊長の馬車に、レイとラクが飛び乗った。
サクは思案した。
呂鯤の動きを抑えるにはどうしたらよいか。
呂鯤はまるで、獰猛な獣である。
──獣であるのなら、動きを封じればよい。最上の策は、……捕縛!
サクは、呂鯤の幕舎に忍び込んだ。
部屋の中央には大きな寝台が、乱れたままの状態で置かれている。サクは、呂鯤の動きを封じるために使えそうなものをさがした。
「レイさま! リツさま!」
サクは、呂鯤の幕舎内にあった大きな白い布をレイとリツに向かって、投げた。
レイとリツの二人は瞬時に、サクの考えを理解した。
レイとリツは、それぞれ布の両端を掴んだ。
二人は、二台の馬車の間に、大きな白い布をぴんと張った。
四頭の馬は、勢いをあげてまっすぐに、呂鯤へと突撃した。
「婦好さま! おどきください!」
二人が叫んだ。
婦好は部下の動きをすべて予測していたかのように、ふわりと、身を引いた。
「あ?」
呂鯤が間の抜けた声を出した。
二台の馬車に繋がれた大きな布に包まれて、呂鯤の身体は均衡を崩した。
「ぶはっ」
呂鯤の巨大な体躯が、白い布に覆われて、倒された。
すかさず、リツが渾身の力で、戈を突き立てた。
レイもまた、それに続いて、呂鯤を刺した。
二本の戈は布と地とを貫いた。
白い布に、じんわりと、呂鯤の血が滲む。
「死んだか……?」とリツが覗きこんだ。
「布を使うとは、なかなか面白い戦い方だ」
と、婦好は鉞をおさめながら言った。
「サクの考えです。わたしとしたことが、膂力の差で、手こずってしまいました」
と、レイが答えた。
サクは、二本の戈を突き立てられた、布の下のふくらみを見た。
呂鯤とは、恐ろしい男だ。
布で覆われた巨体が、死んでいるとは思えない。
「よい。呂鯤の生死は戦の神に任せよう。みなのもの、城門を目指して、ゆくぞ」
呂鯤に、とどめをさすべきではないのか。
サクは進言すべきか、迷った。
呂鯤は、第三隊隊長を殺し、サクもまた死を覚悟した相手である。
同時にサクは、人を殺めるべきだという己の考えに困惑した。
──しかしできることなら、剣を突き刺してしまいたい。
生かしておけばいずれまた死の淵に立たされる、そんな予感がした。
サクが迷っているうちに、婦好たちの馬車は城門へと進路をかえた。
婦好たちが遠ざかった頃、呂鯤は、がばと起きた。
「いかんいかん、昨日の酒が残っていたせいで、寝てしもうた、あ、いててて」
呂鯤の脇腹から血が流れる。呂鯤は腰につけていた瓢箪の酒を口に含み、傷口に吹きかけた。
「婦好のおんなどもめ……がはははは! これからどういたぶってやろうか! がはははは!」
***
婦好たちは、進んだ先で、味方の兵士たちを集めた。
味方は、車馬と歩兵あわせて、およそ千。
第三隊に多くの損害がある。
婦好軍は、密集型の陣形で防戦しながら、門の前まで進んだ。
沚馘西鄙の城門の前で、リツが叫んだ。
「婦好軍である。城門を開けよ」
しかし、城門は開かなかった。
「開かない……?」
サクは、訝しんだ。
──もしかしたら、門を開ける役割の第九隊含む別動隊が、まだ、沚馘西鄙にたどり着いていないのかもしれない。
サクは、状況を観察した。
沚馘西鄙の城門の壁には、死体が逆さまにぶらさがっている。
サクは県という文字を想った。
県という文字は、首が木に懸けられている形の字である。城壁の外側に敵の死体を懸けることで、内側に呪術的な魔除けを期待するものだ。
城門にぶらさげられた、いくつかの死体には沚馘の旗が添えられていた。
サクは気がついた。
魔除けの死体は、沚馘の兵士。婦好軍の味方の兵である。
味方の兵士が魔除けに使われているということは、城門の中にいるのは──。
「婦好さま。呪術のために城壁にかける死者は、敵兵のものをつかうはずです。いま、懸かっている死体は、味方の兵士のものです。つまり……」
サクの言葉に、婦好もまた察した。
「城門の中にいるのは、敵か」
婦好軍が得ていた斥候の情報は、数日前のものである。この幾日かで、戦況が変わったのだ。
都市を囲む城は三層の壁でできている。外城、内城、宮城。
もっとも外側の壁づたいに住むのは一般市民で、外城。
比較的身分の高い者が住むのが内城。
そして、地域を統括する者が住むのが宮城。
おそらく数日のうちに、敵よって外城が制圧されてしまったのだ。
婦好軍は敵に追われ、進むべき道もまた、敵のものである。
──窮地である。
「さあ、我が軍の参謀よ、どうするか」
婦好がサクに問うた。
「敵から、鼓を奪うのです。敵の鼓を鳴らし、中にいる敵に外の様子を知らせるのです。敵がでてきたところを、押しとおります!」
サクの進言に、レイがすかさず、敵地に突撃して、敵の鼓を奪った。
サクはレイから鼓を受けとり、敵の鼓を鳴らした。
しかし、敵の細かな合図など、サクは知らない。
鼓の音は、ただ空をむなしく震わせるだけであった。
敵の追っ手が、婦好軍を囲んだ。
敵の数は、婦好軍の二倍ほどはある。
「サクよ、死地だな。しかし、本当の強さはこの窮地を脱してこそ鍛えられるものだ」
婦好は、この状況下にあっても、どこか楽しむかのように嬉々としている。
「全軍、奮起せよ!」
婦好が鼓舞激励した。
「サクよ、なんでもよい。いま、考えうる方策を進言せよ!」
婦好は、紅の衣を翻して、遊ぶような声を上げた。
「では、おそれながら!」
サクもまた、婦好の高揚に応えた。
「鼓を打ち鳴らし続け、中から開くのを待ちます!」
「天を信じて待つか! サク、別の考えを申してみよ! 次!」
婦好はまるでサクの進言を断ち切るかのように、目の前の敵を叩き斬った。
「城壁を迂回して、撤退します!」
「進む先に活路を見出すか! まだまだだ! 次!」
リツもまた、次々に現れる敵を撃破した。
サクの隣で戦うレイも、敵の血潮のなかでしなやかに舞っている。
「もう一度、山を目指します! そして、来た道を帰ります!」
「過酷な道だが、悪くはない! 次!」
隊長を失った第三隊の兵もまた奮起する。
サクは考えうる作戦を、婦好へ向かって叫び続けた。
「河を目指して進軍し、遡上します!」
「車馬を捨てることはできない! 次!」
「力の限りを尽くして、扉を破ります」
「我が軍の膂力では実現不可能! 次!」
「個々に、散るようにして逃げ、城内に入ります!」
「敵に狩られるだけだ! 次!」
婦好はサクの献策について返答するたびに、敵を一撃のもとに斬った。
婦好軍の兵士もまた、婦好とサクの問答に呼応するように戦った。
倒す敵兵と、倒れる味方兵。
赤と、黒と、生と、死が入り乱れる。
サクは進言しながら、不思議な緊迫感にのまれるようだった。極限の知恵を絞りださねばならない状況と、目の前に広がる戦地の光景。まるで幻想と現世の間にいるような心地である。
やがて、サクの万策が尽きた。
「婦好さま、わたしの浅慮ではもう考えがありません。こうなったら最後、死ぬまで戦うしかありません……!」
「……サクよ、そのとおりだ」
サクは、覇者の気を、初めて視た。熱気をふくんだ風は、まるで炎が揺らめくようである。
「我らの活路は、戦った先にある!」
死地を、婦好は楽しんだ。
城門を背に、追い詰められた。
敵に比べて、味方の数は少ない。
進むべき城門は開くことなく、進んだ先にも敵が待つ。
婦好軍は、八方塞がりだ。
──どうしたら、よいか。
苦悩するそのとき、サクの瞳が、敵兵の奥に、黒く、堂々とした偉丈夫の姿をとらえた。
──悪いことは、立て続けに起こるものである。
不吉な予兆を示した占いの結果が、サクの脳裏に蘇った。
黒衣を身につけ、高く髷を結った男を乗せた馬車が、ゆったりと近づいてくる。
かつて剣戟を交えた敵。鬼方の総大将、鬼公だ。
「鬼公……!」
サクは目を見開いた。
「きたか、鬼公よ」
婦好は挑むような笑みを浮かべていた。




