呂鯤の影
紅色の旗が風に乗り音を立てる。
婦好の馬車に、第一隊から第六隊までが続いた。
婦好を先頭に、矢のような形をつくる鋒矢の陣である。
総勢車馬二百余、歩兵千余。
馬車は二頭立ての三人乗りである。
サクとレイが乗る馬車は、ラクが馭者をつとめた。
二頭の馬は坂道に勢いを増し、車輪はよく跳ねた。
ラクの卓越した馬術をもっても、サクは何度も籠から投げ出されそうになった。そしてついにサクはしゃがみこんでしまった。レイがくすりと笑った。
「サクのことは婦好さまから預かったけど、ちょっと邪魔ね」
「わたしは、稽古をつけてください、と申し上げました」
とサクがふくれると、レイが、
「ふふ。そうだったかしら。まあ、今言っても仕方のないことだわ。そこで震えていなさい」
と微笑んだ。
婦好軍がまず狙うのは、兵糧である。
敵の攻城戦を疲弊させる手段としては、兵站を断つことが効果的である。
第三隊の歩兵が兵舎に次々と火を放った。
敵の見回り兵が、婦好軍の存在に気づいた。敵の鼓の音が、戦場に響きわたる。
あぶり出されるようにして、敵の兵が出てきた。そこを、婦好軍の兵が矛で穿つ。
一般兵卒の刃は鋭くはない。
包丁で切るように肉を断てるわけではなく、矛で殴打を繰りかえし、敵を戦闘不能へと陥れるのである。
一方、サクの隣で戦うレイの攻撃は鮮やかだった。
敵の急所をむだなく斬り、突く。
敵の鎧の隙間から流れ出る血が、踊るような軌跡を描いた。まるでレイが操るようである。
しかし、サクはまだ戦場には慣れなかった。
人間から、血が流れる。
己が進言した策で、人が傷つき死んでゆく。
──胸が苦しい。見ていたくない。
できることなら、後方支援に戻りたい、とサクは願った。
第九隊のセキやシュウとともに味方を癒すことのほうが、自分には合っている。
しかし、サクは己を律した。
戦うと決めたのは、自分だ。
戦況ははじめ、婦好軍の一方的な優勢であった。
──このまま攻勢を維持すれば、戦いそのものが終結するかもしれない。
サクがそう分析したとき、禍々しい気が辺りを覆った。
第三隊隊長が攻撃していた幕舎内から、大地を突き上げるような、唸る声がする。
「おいおい、おきてしまったぞおお。だれだおれのねむりを邪魔するやつは」
日に焼けた男が白い帳の中から出てきた。
「呂鯤……!」
レイが言った。
「あれが、呂鯤……!」
呂鯤がもつ気迫に、サクの肌が粟立った。
呂鯤と呼ばれた男は、髭面で、いかにも無骨者といった外見だ。筋骨が発達して着物に収まらないのであろうか、上半身を露出している。
「土方の将軍、呂鯤とお見受けする! 覚悟!」
近くにいた第三隊隊長が、交戦しようと立ち向かった。
「おおおお、てきか」
呂鯤がぼりぼりと身体を掻きながら寝ぼけた声で言った。
そして呂鯤は第三隊隊長を一瞥すると、巨躯から斧を振り下ろした。
鈍い音が響く。
第三隊隊長の身体が肩から脚まで二つに割れた。
第三隊隊長の身体は血を噴き出して、崩れ落ちた。
「……っ!」
突然降りかかる現実に、サクは目眩がした。
呂鯤は巨大な身体についた第三隊隊長の返り血を、味わうようにべろりと舐めた。
「うむ、美味なり。がはははは」
第三隊隊長が呂鯤にいともたやすく敗けて、殺されてしまった。
隊長格の、あまりにも早すぎる戦死。
第三隊の兵士が隊長の仇を討とうと、呂鯤に挑んだ。
しかし、かなわない。
剛健な身体から繰り出される攻撃に、第三隊の兵士は次々と殺されてゆく。
その様子を見て、レイは言った。
「呂鯤の横暴は、わたしが止めるわ。むしろ、わたししか、止められない。ラク、この娘をお願い」
「サク、婦好さまに伝えて。ここはわたしが引き受けるから、先に進んでください、と!」
レイがサクを馭者のラクに預けて、馬車から飛び降りた。
「レイさま!」
「呂鯤! 婦好軍第一隊隊長、レイがお相手します」
レイは、素早く呂鯤の眼前に躍り出た。
「おうおうおう、美しい女子ではないか。どう戯れてやろうか」
呂鯤は舌なめずりして、応えた。
呂鯤はレイの身体の二倍はある。
レイの劣勢は、サクにもひとめでわかった。
これ以上の犠牲は第三隊隊長の死だけで、とどめなければならない。今回の作戦の目的は、呂鯤の兵と兵糧を削ることである。戦果としては、十分だ。
──レイを失っては、ならない。
サクは、叫んだ。
「ラクさま、婦好さまのもとへ、駆けてください! 婦好さまへ進言するのです。これ以上は、危険です、撤退いたします、と!」
遠くから、婦好の声が聞こえた。
「サクよ、聞こえておるぞ! みなのもの、城門まで一気に駆け抜けるぞ!」
「わたしは、レイさまを迎えにゆきます! ラクさま、馬を!」
サクの命令に、ラクが踵を返した。
「サク! 無茶はするな!」という、リツの声がサクの耳にかすかに届いた。
サクの馬車が、もとの場所へ戻ると、呂鯤とレイが刃を交えていた。
呂鯤の振り下ろす剛力の斧を、レイがかわす。すかさず、レイが速さと軽さをもって、打ち込み、呂鯤が斧で防御する。その繰り返しだ。速さはレイが勝るが、膂力は呂鯤が圧倒していた。
──レイが、苦戦している。
「レイさま!」
「サク! 先に行きなさいと言ったでしょう!」
「レイさま、逃げます! はやく! 馬車に
お乗りください!」
「だめ。逃げても、どうせ、追いかけてくるわ! 気が散るから、早く、行きなさい!」
「ほうほう。ここにも、愛らしい女子がおる。さてさて、どう料理してくれようか」
呂鯤がサクを見た。
呂鯤の鋭い眼光に、サクの全身は恐怖で震えた。
その隙に、レイが渾身の打撃を放つ。しかし、呂鯤は盾で攻撃を撃ち払い、レイは弾き飛ばされてしまった。
呂鯤がサクのいる方向へ振り返る。
品定めをするような目つきだ。
呂鯤は素早くサクの馬車に近づいた。
次の瞬間、サクの馬車の馬一頭が、呂鯤によって両断されてしまった。
馬の血飛沫が天にあがる。
かたわれを失った馬が前脚をあげて嘶いた。
サクの乗っていた籠は、均衡を失って横に倒れた。
「……っあ!」
サクの身体は地面に投げ出された。
戦場に横たわるサクの眼前に、呂鯤の巨大な影が迫った。




