巫祝十氏族の娘
その頃、王は天意を預かる者であった。
大邑商――のちの世では殷とも呼ばれた国は、氏族の連合体である。
『文字』は王が天との対話するためのものである。
それが誕生するまで、この世のすべては言霊であった。
『文字』は十人の巫祝族の長のみに与えられた門外不出の秘術。
しかし、一族のなかに、禁忌を破った娘がいた。
十歳の頃、少女は家に秘密の地下室があることを見つける。
地下室に治められた大量の甲骨には、不思議な文様が描かれていた。
父に叱られるかもしれないという恐れよりも、この神秘のかたちに心奪われたのである。
すべての図象を覚えたとき、サクは甲骨のひとつを持ち出し、父に打ち明けた。
「お父様、この亀の骨に書かれているのは」
「サク。それをどこから持ってきたのだ。元の場所へ戻しなさい」
「これは……占いの結果ですね」
「サク。そなた、まさか。知っているのか」
「……はい。はじめは神秘的な形に心惹かれるだけでした。しかし、何枚もの甲骨を眺めているうちに、その形の共通性を理解して読めるようになったのです」
サクの告白に、父は静かに告げた。
「サク。これは『文字』という。各巫祝の長にのみ読み書きすることを許される、王室の禁忌だ。禁忌を破り『文字』を知った者は死なねばならぬ。どうやら氏族の約束に従い、わたしは一人娘を殺さなければならないらしい。妻に先立たれ、お前だけがわたしに残された家族だというのに」
「お父様、申し訳ありません。わたしの好奇心が過ぎたばかりに」
すこしの思案のあと、父の瞳に決意が宿る。
「いや。どうせ我が氏族の知見は断絶する運命だ。長は男子しか継げぬし、お前は一人娘。しかし、どうせ死んでしまうのなら、選びなさい。この場で一族の血を絶やし、父とともに死ぬか。文字を覚え、生きる道を探すか」
サクは文字を覚えることを選んだ。
文字に心奪われていたからである。父はそのことを秘密にしながら、十歳の娘に文字と学問とを教える。
ある日、巫祝十氏族の長がサクの家を訪問した。
巫祝十氏族の長は、サクの父を敵視する者である。
サクの部屋の壁には文字の習練の跡が無数に残されていた。
「この娘、文字を知っているのだな?」
巫祝十氏族の長は、にたり、とした。
これでやっとこの男を引きずり下ろす名目を得ることができる、という醜悪なる笑みである。
「女の身で王室の禁忌に触れるとは。その罪、死をもって償え」
サクの父は命乞いをする。
「お待ちください。それならば、わたしに処分を。そして娘を婦好軍に」
「婦好軍、か。それは死も同然。いや、死よりも辛い目に遭うやもしれぬ、な」
男はからからと笑う。
サクが文字を覚えたことで、父は罪人となった。
サク自身も死を免れたが、商王の妃である婦好に仕えることとなったのである。
サクは出立の際、父との別離の儀式を許された。
「お父さま、申し訳ありません」
「こうなることはわかっていたこと。そもそも、我々は死人だった。そなたが文字を手にしたその時、殺さねばならなかったのだ」
父は娘の頬をつたう涙をぬぐう。
「しかし、愛する娘を殺せるわけがない。それに、わたしはそなたの運命を知っている。そなたは、」
この後の言葉は、サクには聞き取れなかった。二人は引き裂かれ、父は牢獄へ、サクは戦場への馬車に乗せられた。
伝わらずとも、父は確かに云ったのだ。
『おまえは天をも動かす宿命をもって生まれたのだ』と──。