あゆむ道
会談の翌日、沚馘軍は北の邑より出立した。
婦好軍もまた、次の拠点へむけて、移動することとなった。兵士三千余の進軍である。
行軍には、非戦闘員部隊である第九隊が最も負担を強いられる。
しかし、本拠地移転の準備は順調に行われた。
第九隊隊長セキの手慣れた指示によるところが大きい。
サクは、セキヘ尋ねた。
「以前、セキさまは、引っ越すとおっしゃってました。まるで、こうなることを予想していたような」
「あっはっは! あのときは口が滑ったのだったな! 婦好軍は異民族との討伐を任務として与えられているから、移動はつきものだ。サク! これから第九隊は、大変だぞ。第九隊があつかう物資は軍の要。敵もまずまっさきに狙ってくる」
「婦好さまは、いったいどこまで、先のことを読んでいるのでしょう」
「知りたいかい! それなら婦好さまに、直接聞いたほうがよい。第九隊の任務はいいから、婦好さまの馬車に乗ったらどうだい? 移動の間、少しでもお話してみるといい!」
「いえ、わたしは第九隊です。ここは人手不足。第九隊の任務をこなし、皆さまと歩きます」
サクの隣で快活に笑うセキの指示のもとで、第九隊の荷造りが終わった。
同時に婦好軍は、北の邑を攻略するために設営していた幕舎を離れ、東へ進軍する。
サクは、第九隊の隊員とともに、軍の必需品を徒歩で運んだ。
箱入り娘だったサクにとって、軍隊の一歩兵として歩みを進めることは、初めての経験だった。
兵の基本は、徒歩である。
馬車はあるが、戦闘用であり、全ての物資を運べるほど、足りているわけではない。
馬車のほかには、荷を乗せる台に、車輪があるだけだ。
男性は道案内の老兵ひとり。
すべて女の手で、荷を運ぶ。
道は、平坦ではない。
そこらじゅうの石に、荷を積んだ車輪が引っかかる。
──なんて、過酷。
サクは思わず、サクの後ろで、同じように歩いていたシュウに問いかけた。
「シュウ、いつもこんなに大変な思いをしているのですか」
「そうね。いつもこんなものよ」
シュウはあっさりと答えた。
婦好軍は、乾いた土地から、鬱蒼とした竹林地帯に入った。
風で笹の葉が重なる音がする。
竹林によって作られた影のある道は過ごしやすい。
しかし、陽が高くなるにつれて、喉が乾く。
水は貴重だ。
竹筒に入れた水で、少しずつ喉を潤した。
サクが水を口に含んで、ふたたび荷を押そうとすると、婦好を乗せた馬車がとなりに止まった。
「サクよ、手は空いているか」
「いえ。ご覧のとおり、荷を運んでおります」
「そうか。では、手伝おう」
婦好が馬車から軽々と降りた。
馬車の左には、リツが居た。
リツの体調は回復したようだ。
婦好は、歩きながら、サクの荷物を押した。
婦好とサクが荷を押しながらしばらく歩いていると、リツが婦好をたしなめた。
「婦好さま」
リツの言葉に、婦好は荷を押す手を止めた。
「サクに話したいことがある。今夜、わたしの寝所で待つ」
「はい」
婦好の誘いに、サクは短く返事をした。
後ろを歩いていたシュウは、顔を赤らめて、「まぁ」という声をあげた。
寝所という単語に反応したのだろう。
サクの周りにいた、女兵士達もざわついた。
婦好の乗った馬車が、遠ざかる。
「ねぇ、サクちゃんは、婦好さまとどんな関係なの……?」
「え? ええと、占いを気に入っていただいているだけです」
この会話に、聞き耳を立てるものがいた。
以前に、サクに嫌がらせをした、第八隊の女性たちである。
歩みを進める中で、知りたくなくとも、第八隊からサクを貶める言葉が耳に入った。
サクは居心地の悪さを感じた。
軍の頂点に君臨する婦好に頼られることは喜ぶべきことだ。しかし、婦好の好意がサクへ向かうほど、サクに対する周囲の風当たりは強くなる。
──女の嫉妬心。
サクはあきれるが、現実はどうしようもない。
ただ、目の前のことに専念して、時が流れるのを待つだけだ、とサクは思った。
陽が落ちる前に、婦好軍は野営地に着いた。
沚馘の西鄙へは、あと九日をかけて行軍しなければならない。
この繰り返し。
道をゆくだけでも、厳しい。
陽が暮れると、あたりは闇に包まれた。
守りのためだけに灯された炎では、なにも仕事はできない。サクは婦好の寝所へ向かった。
簡素な白い帳のなかに、婦好の寝所は設けられていた。
婦好は軍議のようだった。まだ寝所に戻ってはいない。
サクは外の闇を照らしていた炎を、寝所の燭台にうつした。
サクは寝台には座らず、床に敷いた布の上に座った。
このように婦好を待つのは久しぶりだとサクは思った。
サクが待っていると、婦好が背後からあらわれた。
「ふふ、サクよ。服が砂だらけ、だな」
「進軍が、こんなに過酷なものとは、体験するまで知りませんでした」
婦好は、桶に溜めてあった水に、布を浸した。長い指でその布を絞り、サクへ渡した。
「これで、身体をふけ」
「水は、貴重ですので」
「遠慮はいらない。ここは商の属領。水が潤沢な地域だ。次は、いつになるかわからぬ」
「では、ありがたく」
サクは、婦好から背を向けて、身を清めた。
「今夜は、そこで、寝るがよい」
婦好は寝台を指さした。
「サクを呼んだのは、これからの戦いについてだ。軍の戦略を錬る者として、サクに伝えておかねばならないことが山ほどある」
婦好の艶やかな肌に炎の灯りが反射する。紅くゆらめく光は、婦好の長い睫毛に影をつくっていた。
「わたしも、婦好さまにお聞きしたいことがあります」
「なんだ」
「いえ、婦好さまから」
「近くへ、こい」
サクは婦好に腕をつかまれ、身体ごとひきよせられた。サクは花のような香りにつつまれた。サクの耳元に婦好の唇が近づく。
「味方に、内通者がいる」
「内通者」
「各地から兵を集める軍隊に、敵の間者が紛れこむ。それは防ぎようのないことだ。かまわない。問題なのは、上層部にしか知りえない情報が、外に漏れている可能性があることだ」
「どなたか、心当たりはあるのですか」
「わからぬ。しかし、今回の戦であぶりだす。沚馘どのには、十日で到着すると言った。しかし、わたしは七日で到着する」
「七日」
「わたしは数千の命を預かっている。ゆえに、敵を、味方すらも、欺く」
婦好の視線が、サクの脳内まで貫いた。
聡いサクは、感じとった。
もしかしたら、己もまた、婦好に疑われているのかもしれない。
サクは新参者である。
もし、鬼公と自分が通じているとしたら。味方である沚馘を欺いてまで行う、神速の進軍による作戦は失敗する。
サクは、己が裏切り者ではないことを天地に誓うことができる。しかし、信じてくださいと言うだけなら、誰にでもできる。婦好の本当の信頼を得るには、今後、行動で示すしかない。
「婦好さま。以前にお聞きしたことがあるかもしれませんが、もう一度、お聞かせ願いますか」
「なんだ」
「弓臤さまに問われて、考えてみたくなったのです。わたしがここにいて、戦う理由はなにか」
「サクが戦う理由、か」
「はい。それを知るためにお聞きしたいのです。婦好さまが戦う理由はなんでしょう。そして、どこまで先を見据えていらっしゃるのでしょう。わたしは、婦好さまが、追いもとめている世を、ともに見たいのです」
「わたしが、追いもとめるもの。サクは、どう思う」
「訓練を経て、考えました。婦好さまが戦った先に、戦禍によって人の血が流れない世が開けるのでは、と」
「戦禍によって人の血が流れない、世。サクはそんなことを考えていたのか」
サクの言葉に、婦好の大きな瞳の色が深さを増した。
「はい。沚馘軍との訓練から考えておりました」
婦好は、しばらく口元に手をあてていた。そして、言った。
「サクよ。この戦いが終わったら、ともに、王のいる安陽へ行こう。そこですべてがわかる」
安陽。大邑商の王都。
サクも、父に連れられて一度だけ訪れたことがある。
「サクは、われわれ商に、敵対する勢力がどれだけいるか知っているか」
サクは、首を横に振った。
「では、そこからだ。サク、よく覚えておくのだ。商は、女と同じだ。強くもあり、弱くもある」
婦好より、サクへ戦略家としての知識の伝授が始まった。
商の敵対するものとしては、鬼方のほかに、土方、蒙方、基方、巴方など多くの勢力が存在すること。
あるときは商が攻撃をうけ、またあるときは商が攻撃していること。
商が直轄する地域は三十ほどの邑でしかないこと。
母なる大河と、その先に広がる海のこと。
過去に起こった戦いのこと。その戦術のこと。
婦好とサクが語らってから、どれほどの時が過ぎただろうか。
サクは睡魔に襲われた。
昼間の疲れもあって、サクの意識はいつのまにか混濁していた。
婦好は、サクに布をかけた。
そして、サクのまどろむ顔をしばらく見つめていた。
「やはり、似ている」
サクの夢現の意識のなかで、婦好の、誰かを愛おしむような声が聞こえたような気がした。
──似てる? 誰に?
言葉にならなかったサクの疑問は、サクの睡魔とともに、闇に葬られた。




