さだめのひと 弓弦(1)
サクは遠く、弓弦のもとを訪ねる。
婦好の姿を探すも、旅の途中で情報が尽きたからだ。
商とは同盟関係となったとはいえ、鬼方へひとりで入るのは困難を極めた。
やっとのことで鬼公の宮城の弓弦の部屋に到着する。
弓弦は鬼公を支える者としての役目を負っていた。
「久しぶりだな。サク」
「弓弦さまも、お変わりなく」
「いや……変わらぬとは言い難い。まもなく俺の目は見えなくなるだろう。お前の顔も、この距離ではわからん。しかし、見えにくくなったことで、かえって見える世界もある。サクよ。また強くなったな」
「弓弦さまは、いかがお過ごしですか」
「最高だよ。鬼公にやっと恩返しができる。あの方の、史を残せる。それで、お前はなぜここに来た」
「婦好さまを探しています」
弓弦は妥協なくまっすぐにサクへ問う。
「婦好は死んだのか」
「わかりません」
「わからないのか。かわいそうに……」
弓弦は相変わらずの皮肉を放つ。
「お前を哀れんでいるのだ。お前にとっての婦好は俺にとっての鬼公。その生死もわからぬようではかわいそうな奴だと言っているのだ」
「わたしはいま、婦好さまの行方を探す旅の途中です。弓弦さまであれば、なにかご存知なのではと思ったのです」
「そうか。お前がなぜここまで来たのか、合点がいった。悪いが、婦好のことは知らぬ。俺の間諜としての役目も終えたから、役に立ちそうにもない。サクよ。弱いお前が、一人旅とは。道中に襲われないのか」
「わたしを犯すことはできません。いまやお義兄さまと同じですから」
弓弦は片側だけの目で、黙ってサクの次の言葉を待った。
「女の一人旅など、山賊に襲われても仕方ありません。ですから、狂人を装い、人と会うとき以外は髪を解いて歩いています」
事実、サクはよく襲われそうになっていた。
襲われぬために、サクはある風習を利用した。
人は髪を結う。
髪に宿る生命力を封じるためだ。
髪を結ばずにいることは、髪に宿る力をいたずらに放出していると人々はみなし、呪的な意味で嫌う。
すなわち狂人である。
まともな感覚であれば、まず、近寄らない。
サクは巫者の衣を纏い、髪を解いて歩んだ。
それでも、女とわかれば身体を求めようとする者はいる。
「わたしは貞操を守りたいと願う者です」
婦好を探すために、旅は続けなければならない。
しかし、婦好との夜の思い出も引き換えにはできなかった。
「だから、女である部分を縫いました。医の道の友にお願いしました。わたしはここでも無知でした。婦好軍にはこの術を施した者が少なからず居たのです」
「痛みは」
「想像を絶する痛みでした」
「同じだな。俺も失ったときは三日三晩のたうちまわったものだ。使命さえあれば、どんな刻苦も受け入れられるものだ」
「はい。過酷な旅ですが、天がまだ生きよとおっしゃるのです」
「婦好の情報があれば人を遣わせよう。
やることがある。やれ。
お前は『文字』の巫女だ。『史』の巫女でもある」
「呪言に、感謝いたします」
サクは去ろうとして、肩を震わせた。
光を失う前のこの男に会うのは、最後になる気がした。
どうしても、語らねばならぬことがある。
サクは振り返り、弓弦を後ろから抱きしめた。
はじめて触れる亡き父以外の男の背は、硬く、広く、記憶の中にない。
父を思うと、涙が溢れた。
「どうした。別れがつらくなったか」
「文字の巫女。史の巫女。……やはり、弓弦さまに、弓弦さまだけに聞いていただきたいことがあります」
「言えばいいさ。聞いてやろう」
「創りました。わたしだけが語ることのできる、『史』を。とある女性の『史』を」
これまでの戦い。
誰がなにを思い、どう行動したか。
旅の間、一歩一歩と土を踏むたびに、言葉が生まれ続けていた。
「『婦好伝』です」
「『婦好伝』か。良いではないか。史を担う者として俺も広めるのを手伝ってやろうか」
「そうです。広めたかったのです。わたしは、残したかったのです。あの美しい女性の姿を。その生きざまを」
いつのまにか、サクは弓弦の腕に抱かれていた。
偽りの家族は父の死によって壊れた。
しかし、弓弦とサクはお互いの生き方が酷似していて、本当の兄妹であるようにも思えた。
「創り終えてから、先々のことまで考え抜いたのです。
誰かに話し、その話を誰かが話し、……十世代先にどう残るか。
史は、口伝えです。
いままで神代以外に、女性の英雄の史はありません。
よくて英雄の妻、英雄の母。
運よく残ったとしても、そのときの為政者に歪められてしまうのではないでしょうか」
「そうだな。人の嫉妬心は、お前が思うよりも深い。必要のない『史』は抹消される運命にある」
「はい。だから、人々に説いて回ることができないでいるのです」
「諦めることはないさ。聞いてやろう。お前ができないなら、俺が手伝うことだってできる。後世に残るかどうか、賭けてみてはどうだろうか」
弓弦はサクを椅子に座らせた。
「おい、もう酒は飲めるんだろ。俺は知っている。お前はもう、乙女ではない」
鬼方で作られた酒器──觚に酒を注いで高く掲げる。
「お前もまた、英雄に仕えた女傑だろう?」
楼台の光が土壁に弓弦の影を映し出す。
「さあ、今宵は『婦好伝』を酒のつまみとしよう」
羽虫が炎に飛び込んで消えた。
サクは披露し、弓弦は記憶した。
一晩をかけて。
『婦好伝』を──。
次回、最終話です。




