萌芽と才(2)
婦好を探す先で、サクは沚馘の邑を訪れた。
沚馘の宮城の一角にたどり着いたとき、池のほとりには花が咲いていた。
宮殿を訪ねると、嬰良はすでに婚姻し、子が生まれていることをサクは耳にする。
サクの来訪を聞いた嬰良が、紫の衣を翻して駆けよった。
「サクどの。ようこそお越しくださいました」
「嬰良さま。従者の方からご結婚されたと伺いました。おめでとうございます」
「父の勧めを断り切れず、会盟の一年ほどまえに。この間、子も生まれたばかりです」
嬰良は照れくさそうに頭を掻きながら言う。
「子は女の子です。おそらく斎女……家を守る巫女となります。サクどのに祝福を授けていただきたいです。これから連れてくるので、抱っこしていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、もちろんです」
連れてこられた子供は、どこかサクに似ていた。
生まれたての赤子を抱くのは緊張する。
泣かぬよう、腕でその身体を包んだ。
「ふふ、かわいいですね。奥様に似ていらっしゃるのでしょうか」
「ええ。よく言われます」
嬰良の妻はもしかしたらサクに似ているのかもしれない、と思った。
もし、嬰良に婚姻の申し出を受けた時、婦好軍をやめていたら──。
選択の先の姿がそこにはあった。
慶事を祝う気持ちと、どこかほっとする気持ちが同時に襲う。
あとからじわじわと、女としての現実に胸が締め付けられる。
選んだ道に後悔はないはずなのに──。
ぐるぐるとした内心をもしセイランに吐露すれば、百も千も言葉で返してくれるだろう。
しかし、この無垢な赤子の前で、醜い心は微塵にも持ってはいけない。
──いつだって、婦好さまに愛される自分でありたいから。
サクは聖母のような笑みを浮かべた。
「人の命は宝です。この子がどうか、善き縁に巡り合えますように……」
「サクどの。婦好さまは、お元気ですか?」
「それなのですが……会盟のあと、婦好さまの行方がわからなくなり、探しているところなのです。嬰良さまはご存知ありませんか」
「そうだったのですね。婦好さまは安陽で静養しているものと思っておりました。会盟では深い傷を負われていたようだったので……。お役に立てず、申し訳ないです」
「いえ、みなさん、同じことを言われます」
嬰良は、かつてサクに求婚した場所を眺める。
花に蝶が舞う。
かつてともに見た、小さい藍色の花はきらきらと輝いていた。
「サクどの。以前にここを守っていただいた日がとても懐かしいです。これもなにかの縁といえましょう。
わたしは知っています。この安寧は婦好さまとあなたが作ってくださったことを」
「そのような美しい話ではありません。何も考えずに、多くの命を奪いました」
「遠回りではなかったと思います。誰かがやらねばならなかった。誰が欠けても成立しなかった。
惜しいですね。もしあなたが男なら、会盟でその名が刻まれたかもしれないのに」
「名を、刻む……?」
はっとして、サクは気付いた。
「誰が、でしょうか」
──どうして、いままで考えなかったのだろうか。
『文字』と『史』。
その目的を成就させるために、もっともふさわしい武器を持ちながら。
「わたしが、刻めるのではないでしょうか。婦好さまの名を……」
すべての戦いに意味はあったのか。
あの会盟を経てしまうと、それもわからない。
ただ、命を燃やし、生きた。
奪った命もあったが、守られた命もあった。
名を刻む。
戦い抜いたあの美しい人の名を──。
嬰良の整った顔に、陽の光が当たる。
「婦好さまがいなければ、きっとわたしは死んでおりました。この子もこうして誕生することはなかったでしょう。婦好さまには、本当に感謝しております」
嬰良の言葉に、サクの眼前の花の色までもが変わったような感覚に包まれる。
腕の中の赤子は、もし婦好が戦わなかったら、誕生しなかった命だと父たる嬰良は言うのだ。
ふくふくと柔らかな肌は温かく、無邪気で可能性に満ちている。
これまで戦ってきた意味を、使命を、天命を、サクは赤子のなかに見た。
サクは涙をポロポロと流した。
「嬰良さま……。わたしは嬉しいです。この子こそ、婦好軍が戦ってきた意味、そのものです。命を繋いでくださって、ありがとうございます」
涙を流すサクを、嬰良は優しい瞳で見つめる。
「……あの。もしよかったら、考えていただけませんか」
嬰良は、付けていた衣服と冠を正した。
嬰良が低く決意に満ちた声を響かせる。
「サクどの。わたしのもとに来ていただけませんか」
「それは……、側室、ということでしょうか」
サクは再び現実に引き戻されて、涙をぬぐった。
「そのように求めていただけること、ありがたく思います。しかしわたしはもう、子を持たないと決めたのです。申し訳ありません」
「そうですか。形だけでもいい。子を持たなくとも良いです。邑に一室を設けて、毎日、盤を使って邑の子どもたちに防衛の指南など、いかがかなと思ったのです。あなたが一緒なら、日々がとても楽しいと思ったのです」
「本当に、もったいないお言葉です。でも……」
「婦好さまを、お慕いしているのですね」
サクはこくり、と頷いた。
この気持ちをあきらめることはできない。
歩むことでしか、もうどうすることもできないのだ。
「断られましたが、どこか嬉しいです。そんな一途なサクどのがとても好きです」
かつては十五歳の少年と、十四歳の少女だった。
いまは十九歳と、十八歳になろうとしている。
もう子供ではない。
「わたしももう、妻も子もおります。欲張っては、婦好さまに怒られてしまいますね」
子供が泣き出した。
嬰良は、子をあやそうとサクの腕から優しく受け取る。
「サクどの。絶対に、後悔をしない生き方をしてくださいね。
困ったことがあれば、いつでも相談にのります。……戦友として」
「はい。ありがとうございます」
嬰良親子の顔に池の水面が反射して、眩しく輝く。
この家族の安寧が理不尽に奪われないこと。
いままでの行動が少しでも役に立ったのなら、すべてに意味があったのだと思いたかった。
サクは彼らの幸せを願うとともに、己の天命を見つめなおした。




