紅の衣(4)
夏華から譲り受けた馬車に乗り、再びサクは婦好軍のもとへ訪れる。
婦好軍に近づくと、切り立った崖の上に紅の衣が見えた。
「婦好さま……?」
その姿を追い求めすぎて、幻を見たのかもしれない。
一縷の望みをかけて、サクは麓から駆けのぼる。
「婦好さま……!」
丘の上に着くと、紅の衣を靡かせる人物がいた。
「サク」
意中の人が振り返った。
懐かしい、紅色の上衣。
顔を見た瞬間、サクは現実と幻の狭間に居た。
──似ている。
けれど、違う。
その衣は白い羊の毛皮で装飾されている。
「レイ……さま?」
「おかえり、サク」
「婦好さまだと思ってがっかりさせちゃった?」
「レイさま……!」
サクはレイに抱き着いた。
婦好ではなかった。
しかし、旧友との再会にサクの心に甘さが広がる。
「驚きました。レイさまは婦好さまにとても似ています。婦好さまになりきり、周辺の邑の抑止力となっていただいているというわけですね」
「そうなの。こうしていたほうがいろいろと都合がいいから。お姉さまの婦好さまがいる限り、婦好軍は失われないわ。わたしたちの婦好さまの訃報は秘密にされているのだから」
レイは丘の上に片膝を立てて座り、サクに棗をふるまう。
サクはその隣でこれまでのことを語り合った。
「婦好軍は、その後いかがですか」
「婦好軍が居るということを聞いて、攻めてくる勢力はほとんどいないわ。先の戦の……悪名といったら良いのかしら」
レイは、丘の上から周辺を見下ろす。
ここは戦場のにおいが一切しない。
「サク。どう? 婦好軍にもう一度、来ない?」
サクは首を横に振って否定した。
「そう。ここは穏やかよ……、本当に穏やか」
風がレイの髪を揺らす。
こんなにもあどけない──幼さの残るレイの横顔を見たのは、サクは初めてだった。
「本当に、誰も攻めてこないの。北方、西方、東方、南方。どこも強さに欠ける場所はない。これは婦好さまの望んだ風景なのかしら」
サクが婦好とかつて語った、
『戦禍によって人の血が流れない、世』。
一瞬でも、一地域でも、実現はできたのだろうか──。
レイは空気を吸い、しなやかに身体を伸ばした。
「ねえ。サク。これからのこと、どうするの? 嬰良のもとに、行ってみたらどうかしら。あなたたち、ちょっといい感じだったじゃない。子を産み、女の幸せを享受するのも良いと思うわ」
「いえ……、わたしは、婦好さまを探したいのです。たとえそれが棺であっても。そうしないと、心が落ち着かないのです」
「そう」
レイはサクの肩を優しく抱き寄せた。
「サク。どこにも居場所がなくなったら、ここに戻ってきなさい。わたしたちは家族みたいなものなのだから」
◇
サクはシュウの医のための幕舎を訪れた。
先の戦での怪我人の看病をサクは手伝う。
シュウの手が空いたとき、安陽での出来事を報告した。
「安陽で、婦好さまには会えませんでした。躯を含めて。
お姉さまも含め、みなさん、婦好さまは亡くなったと言うのです」
「サクちゃん」
「願うことなら、婦好さまに殉じて自刃したかったのです。お姉さまに頼んで、同じ墓に入りたかった。けれど、拒まれてしまいました」
サクは顔を上げる。
「でも、拒まれたということは、まだ望みがあるのです。
わたしは、婦好さまの躯を、棺を、見ていません。
もし本当に亡くなったのなら、夏華さまが、葬儀を軽んじる理由がありません。
これから葬礼の痕跡を探ります。
それがなければ、きっと婦好さまは生きています」
「サクちゃん」
「わたしは婦好さまを捜しに行きます。もし見つかったのが墓なら、わたしはその場で自刃します。そのときは、玉の腕輪をシュウのもとへ届けるように伝えます」
「わかった。旅に出るのね。協力する」
「一人旅です。誰も守ってくれません。シュウにお願いがあるのです」
シュウにあることを相談した。
奪われないために、旅に出るために、身体に術を施す。
弓弦と同じだ。
すなわち、女である部分を縫合する。
「サクちゃん、本当にいいの?」
「覚悟はできています」
「ねえ、サクちゃん。……婦好さまのことをあきらめようと思ったことは、ない? サクちゃんの目の前にはたくさんの道がある。いまのサクちゃんには、なにもしがらみもない。罪もなく、本当の自由。それは婦好さまがサクちゃんに残してくれたことだと思うの。違う道を考えてみてもいいんじゃないかしら」
「もしその自由があるのなら、婦好さまのために使いたいのです。どうしても気が済まないのです。お願いします。わたしの心のままに選ばせてください」
「わかった。そうね……。サクちゃんが旅をする間、無理に奪われる思いをするのはわたしも嫌だから、協力するね。大丈夫。わたしもこの術は初めてじゃないから。秘密だけど、婦好軍にはこの術を希望する人も多いの」
「そうだったのですか。知りませんでした……」
この世では何かを得たければ、対価を差し出さなければならない。
この決断は、夏華の言葉に対する反抗心からの回答でもあった。
シュウによる施術が始まる。
「安心して。わたしなら、解くこともできるから」
痛みを緩和する薬を飲んだせいで、シュウの言葉は遠く聞こえる。
ハツネの持っていた眠り薬と同じ。ケシの実を調合したものだ。
「サクちゃん、あなたは本当に綺麗……」
サクは耐えがたい痛みに襲われながら、再会を祈った。




