不吉な予兆
訓練を終えたサクたちは、幕舎に帰還した。
「サクちゃん!」
怪我人の手当てをしていたシュウがサクを出迎えた。
「サクちゃん、怪我はない?」
シュウがサクの頬や肩をなでるように、確認した。
「大丈夫、ありがとう」
サクは第一戦で全身を打ちつけてはいたが、すでに痛みはなかった。
「聞いて! 今回の訓練では、死者はでなかったの! 怪我人もほとんどいなかったわ。こんなこと、本当に珍しい。以前にはなかったことだわ」
サクは、なにも言わずに微笑んだ。
怪我人や死者を減らすために、サクが命を賭けたことを伝えれば、きっとシュウには叱られるだろう。
「シュウ。なにか、手伝うことはありますか」
「いいえ、怪我人はほとんど軽傷か、打撲だったから、あまりやることはないの。これから始まる宴の準備のほうが、忙しいかも」
サクは、ふと、医務をおこなう部屋の奥に、見知った顔をみつけた。
婦好の側近のリツである。
サクは、婦好軍で婦好のつぎに知り合った人物として、リツに親しみを感じていた。
「リツさま、訓練中にいらっしゃらないと思ったら、こちらにいらしたのですか」
「サクか。訓練は終わったのか。参加できず、口惜しい。結果はどうだったか」
「三戦して、二勝しました。婦好さまと、レイ様の活躍が素晴らしいものでした」
「そうか。わたしもお役に立ちたかった」
「リツさまは、なにか、お病気で……」
と、サクが言いかけて、シュウがさえぎった。
「あらあら、サクちゃん。リツさま、ごめんなさいね。そういえば、サクちゃんには教えていなかったわ」
「ん? かまわない。サクの世間知らずはいまにはじまったことではない。それより、サク。訓練の様子について、もっと聞かせてほしい」
サクは事情がわからず、目を丸くした。
サクは、リツへ訓練の様子について話した。
話を終えて、サクがリツから離れてから、シュウにたずねた。
「リツさまはお病気とのことですが、まさか、リツさまは不治の病などを患っているのですか」
「まあ! 不治の病なんて。あらあら、そうね。説明を忘れていたわ。リツさまは腕に赤い布を巻いていたでしょう? そのときは、えーと、サクちゃん? ほら、女の子の病気のこと」
「?」
シュウは、手に口をあてて小さな声で言った。
「月のものよ」
「あ」
「月に一度。つらさは人によって違うけれど、みんな二、三日、長いかたで七日は静養するわ。そのときは、赤い布を腕にまくの。覚えておいて」
「みな、休まれるのですか」
「そりゃあね、つらいもの。婦好さまも、積極的に休めとおっしゃるわ」
兵士が月のもので休むとしたら、単純に戦闘員が減る。
沚馘軍との戦いで痛感したが、女子だけの軍は制約が多い。
「婦好さまも、休まれるのですか」
「そういえば、婦好さまは、休まないわね。あの方は、頑強な精神力とお身体をお持ちだから」
「そうなのですね」
「その様子だと、サクちゃんは、まだみたいね」
シュウがサクの顔をのぞきこんだ。
突然の問いに、サクは顔を赤らめた。
シュウの言うとおり、サクは、まだ子どもだった。
***
その頃、婦好は沚馘と弓臤とともに軍議部屋にて談論していた。
各隊の隊長も集められる。
突然、沚馘の邑からの伝令が通された。
伝令はよほど急いでいた様子で、全身が砂埃にまみれている。
「沚馘さまに、申し上げます」
「ほ、どうした」
「沚馘の西鄙が、鬼方に攻められております!」
「まさか」
部屋に、緊張が走った。
弓臤が落ち着いた声で問いかけた。
「それは、何日前の話か」
「沚馘さまが、出立した三日後です」
「ついにきたか。しかし、まずいな。主力軍をこちらに連れてきてしまったわい」
沚馘の動揺に、婦好が弓臤へ問いかけた。
「なんだ、弓臤。おぬしの策ではないのか。わたしはてっきり、弓臤の罠、つまり主力軍を移動させて敵を誘う戦略なのだと思っていた」
「いや……残念ながら、罠ではない。信頼に足る情報筋から、今季、鬼方と土方は攻めてはこないとのことであった。それが、誤りだった」
「ふ、虚報をつかまされたのか。弓臤らしくない」
弓臤が己を嘲るように、ため息をついた。
「なんてことだ。虚報を掴まされた。小娘にも負けた。引退のときかもしれぬ」
続けて、弓臤は沚馘に向かい、頭を下げた。
「沚馘さま、申し訳ありません」
沚馘が短く、
「よい」と答えた。
沚馘の高笑いが、消えた。
沚馘にとって、領地を攻められることは全く想定していなかったわけではない。しかし、その事実は、この老獪なる人物を狼狽させるに足る情報であった。
その様子を、婦好が気遣った。
「沚馘どのが、心配されるのは無理もない」
「実を言うと、沚馘の西鄙を守るのは、二番目のわが息子なのです。息子は、十五歳。若年で、頼りない。寡兵の守りで、いまから間に合うか、どうか……。西鄙に家族が居る兵士も多い。すぐに、出立いたします」
「婦好軍も、すぐに、参戦いたします」
婦好が答えた。それについて、弓臤が問いかけた。
「婦好よ。そなたは王直属の軍。王の命もなく動けるのか」
「王の命がなくとも、神の言葉を得られれば、どうだ?」
「神の言葉、だと?」
「だれか。亀甲を。それから、サクを呼んでくれ」
***
第九隊の雑務をこなしていたサクのもとへ、馬車に乗った第一隊隊長のレイが、風のようにあらわれた。
「サク。婦好さまがお呼びよ。こちらへ」
サクは、レイに近付いた。
レイはサクの手をとって、軽々と馬車に乗せる。
「鬼方が、沚馘の西鄙を襲っている」
「えっ」
「これから、戦いになる」
レイは短く説明した。馬は、疾風のごとく駆けた。
レイに連れられたサクが、軍議部屋にたどりついた。
「サクよ、きたか」
婦好の言葉に、部屋にいた者たち全員の視線がサクへ集まった。
「早速だが、占ってほしい。沚馘の西鄙に鬼方軍が侵攻している。婦好軍が進軍してよいか、否か」
「はい」
サクは、古来より伝わる正式な手順で占った。
「この娘、占いもたしなむのか」と、弓臤が驚いた。
「巫祝の娘だと言っただろう」
「なるほど、使えるな」
サクは甲骨にできたひび割れから、吉凶を判断した。
「結果は吉です。神は、婦好軍の参戦をお望みです」
浮かびあがったしるしは、全体でみると、吉兆だった。しかし、こまかい部分において、どこか不穏な、不吉な予感を示すものだった。
この、ごくわずかな憂いを、軍議の場で言ってよいことなのか、サクはためらった。
サクが迷っていると、婦好が引きよせるように、サクへ手を差しだした。
サクは、綺麗なかたちの指先にいざなわれるままに、亀甲を婦好の手にのせた。
婦好は、占いの結果を少し見て、第九隊隊長のセキヘ渡した。
「誰か、適任の者を選んで、安陽へこれを送れ。王には、それだけでよい。いずれにせよ、婦好軍に鬼方討伐の命はくだる。命令を待つ時間が惜しい。それから、沚馘どの。鬼方討伐に必要なものは用意しましょう」
「ありがたい」
「婦好軍も出撃する。しかし、沚馘の邑までは時間がかかる。婦好軍は属邑に野営しながら、歩兵を最速で歩かせても、およそ十日」
「われわれ沚馘軍は、八日かけてここまできました。帰りは七日で行きましょう」
「婦好軍は、やはり、十日だ。女の足なのでな。道に詳しいものを貸してほしい。できれば、老兵を」
「老兵でごさいますね。心配なさらずとも、婦好兵には、誰も、手だしはしません。返り討ちにあうか、呪いを受けそうですからな」
「いや、心配なのは貴軍の兵士だ。若ければ若いほど、衝突しやすい。わたしの兵は少々、気が荒いのでな」
「たしかに、たしかに。では、気の柔らかな老兵を選びましょう。さてさて、こうしている間にも我が邑は侵攻をうけている。急ぎ出立の準備じゃ」
沚馘がサクを向いて言った。
「それから、お嬢さん、礼を言おう。死者のない訓練のおかげで、我が軍の兵はほとんど消耗することなく帰還できる」
サクは、思いもよらない沚馘の言葉に、「いえ」と謙遜した。
それをみた弓臤が婦好に噛みついた。
「婦好よ。まさかとは思うが、こうなることを読んでいたのか」
「いや。わたしは、ただ神の意向に従っただけだ」
弓臤の問いに、婦好が飄々と答えた。
サクは、婦好の神の意向という言葉をうけて、より正確な占いの結果を伝えねばと意気込む。
「亀甲による占いは、わずかながら、気がかりの残る結果です。みなさま、油断なさいませぬように」
サクの言葉によって、部屋が一瞬、静まりかえる。
婦好が静寂を打ち破り、神をも御する声を放った。
「これより、沚馘西鄙の防戦へ援軍として向かう。皆のもの、まずは沚馘軍の準備を支えよ。その後、婦好軍も参戦する」




