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夏華と陽華(5)

 サクは夏華のもとへ謁見(えっけん)を申し込んだ。


 サクは安陽に入るとき、弓弦の間者にすすめられて変装した。

 命を狙われる恐れがあったからである。



 安陽は陰鬱(いんうつ)としていて、政争が絶えぬようであった。


 絶対的な支配者たる微王が消えたからである。


 商は微王の狂気──彼への畏怖(いふ)によって統治されていた。


 これからは商王のみの手腕によって立て直さなばならない。


 夏華に会うまで、サクは三日待たされた。


 やっと会えたとき、夏華は疲れているように見えた。





「会盟のとき以来ですね。その後、お元気かしら」



()()()()も、お元気そうでなによりです。お時間をいただき、ありがとうございます。婦……陽華(ようか)さまの行方を捜しています」



 姉の婦好は、()()として、瞳を爛々(らんらん)と輝かせた。



「あの子が、名を明かしましたか……」


 嬉しそうに、麗しい人が胸に手を当てる。


「わたくしの名も知っておりますね。わたくしの本当の名は夏華(かか)。夏華と申します」



 夏華は、青い衣に緑の薄絹を重ね、艶めく黒髪を青く光らせていた。


 気品のある唇で彼女はぽつりと悼む。



「陽華は、亡くなりました。もう、何日も前のことです」



 サクは信じたくはなかったが、覚悟はしていた。

 この美美たる人から告げられると、現実になっていくように感じる。



 視界が揺れる。

 涙のせいであることを理解するのに、少し時間がかかった。



「亡骸は……その亡骸はどこに」



「妹は、黄銅の(えつ)とともにわたくしの墓に埋葬しました」



 夏華はサクに背中を向ける。


「我々王族は、墓を生前に作っておくものです。

 あの子はわたくし。わたくしが死んだときに、同じ墓に入ります。

 同じ墓に入れば、死後の世界でも、一緒にいられますから」



 夏華は振り向いて、(ひざまず)くサクのもとへ音もなく歩み寄る。



「……もし、もしいますぐ妹に殉じるのなら」



 この世のものとは思えないほど理想的な造形の顔面が、サクの鼻先にまで脅すように迫った。



「妹の死の犠牲になる覚悟があるのなら、貴女(あなた)もこれまでの働きに免じて、わたくしの墓に入ることを(ゆる)します」



「はい。……殉じます」



 サクは身動きひとつせずに即答した。

 かつて、微王の墓を訪れたとき、リツが『死後まで婦好さまとともにする所存です』と答えていた。

 そのときのサクは答えられなかったが、今は覚悟を決めている。



 夏華は、まるでサクの首元に突きつけた銅戈を外すように、ふんわりと優しい気を纏ってサクから離れる。



「ふふ。ごめんなさい。貴女(あなた)を試してみただけです。そのような儀式はしませんよ。あの子はわたくしの手足であり、影でしたから」



「いいえ。お許しさえいただけるなら、わたしを、あの方と同じ墓に入れてください」



「葬儀は秘密に行われました。わたくしの墓の完成は、実はまだなんです。それに、妹はわたくしの影。どんなに華々しい戦果を挙げても、すべてわたくしの名前のもとに記憶される。(おおやけ)には存在しないのです」



「妹は幸せ者でしたね」



 夏華は、神々しいほどの笑みをみせた。



貴女(あなた)に出会えたから」



「違います、違います……わたしに出会わなければ、わたしさえいなければこのようなことには」



「遅かれ早かれ、あのまま戦いが続いていたら、妹は命を落としたことでしょう。貴女は戦を収めて多くの命を救ったのです」



「そんなことはありません。……()()()()()()()()()()()()()()



 サクはその言葉を発するので限界だった。

 シュウに告げたように、この人の眼前で希望的な憶測は言えない。

 もし言えば、命さえ奪われるような威圧感を夏華は静かに放っていた。



 夏華は、生来の美貌に、胆力、智略、政治力を兼ねる。

 巫祝としてもサクとは格が違う。


 ──敵わない。


 すべてがサクより優れていた。

 陽華はずっと夏華のために行動していて、サクへの贔屓も面影を重ねていたのだ。



 ──嫉妬心。

 ずっと振り回されている。なんて醜い感情なのだろう。




「サクさん。ありがとう。妹の代わりに、貴女(あなた)にお礼を申し上げます」



 当世一の美しい女性は、サクに歩み寄り、下腹部に手を触れた。

 子を宿す場所だ。

 陽華が微王に刺された位置と同じでもある。



貴女(あなた)は、まだ子を産み、育てることができる。妹とは違う道。わたくしのように。どうか、幸せになって」



 陽華とは違う、甘い華の香りがサクを包む。



「妹の遺した財貨をお渡ししましょう。それがあれば、一生を楽に過ごせると思います。あとで、従者から渡しますから、どうか受け取って」



「そんな……、わたし、要りません。そんなもののために、今まで戦ってきたわけじゃないんです」



 サクは食らいついた。



「陽華さまとともにいたいのです。たとえ、死後の世界であっても、わたしはあきらめません。どうか、お願いです。陽華さまの亡骸の在り方を、()()()()()()()()()教えてください」




「ごめんなさいね。さようなら、サクさん。もう、わたくしも行かなくては」




「待ってください。陽華さまは……、ずっと夏華さまを想っていました。陽華さまがわたしを側に置いてくださったのも、わたしがあなたに似ているからです。ずっとわたしは、あなたの代わりだったのです。身代わりとしてでもいい。わたしを陽華さまのそばにいることを許してください」




「わたくしが愛しているのは商王ただひとりです。

 それに、陽華が最期に愛していたのは、サクさん。

 貴女(あなた)です。

 約束があるので、本当にごめんなさい。

 それから、しばらく安陽は貴女にとって危険だと思います。すぐに離れて。でも、困ったときにはまた訪ねてくださいね」



 姉の婦好は去る。


 サクは夏華の従者によって、部屋の外に締め出されてしまった。



()()()()……!」



 夏華の部屋の扉が閉じる。



 サクはその場に立ちすくむしかなかった。



 ──なにもわからなかった。



 やはり、サクのかつての(あるじ)は亡くなってしまったのだろうか。



 現実に打ちひしがれる。

 胸をかきむしられるようである。



 サクは()()ない思いをどうすることもできないでいた。



「陽華さま……」




 もう、涙は枯れ果て一滴たりとも出ない。



 サクは宮殿を出て、走った。

 走って、心を奮い立たせた。


 裾に足を取られて転ぶ。


 転んだ体勢のまま、道の上で指で文字を書いた。

 思考を落ち着かせるためである。



 己を戒めるように大地に文字の呪を施す。

 『歩』と──。


 『歩』は左右の足を上下に並べて、目的地へ行く文字である。



「立ち止まりません。歩みます。必ず。探し出します。たとえそれが(ひつぎ)だったとしても。わたしは、婦好さまの巫女なのだから……!」



 サクは次なる手を考え始めていた。





 ◇





 姉──夏華(かか)はひとりになってから、宮殿の回廊を歩み天空を見上げる。


 蒼天に(たか)が悠々と遊んでいた。



「言われたとおりに伝えました」


「本当に、これでよかったのですか」


「陽華、心安らかに……」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 殷周時代の価値観が明白であること。 [気になる点] 夏華は新たな道をサクに示しましたが、後世では婦好の存在が軍人と王妃なのは、一人で役目を全うしかかもしれないし二人で今作みたいに役割を分担…
[一言] んんん? サクの行動が実を結ぶとよいのですが。
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