「王師、鬼方に克つ」(7)
会盟の席に、二つの玉座が用意された。
白き道に、馬車が進む。
黒い装いの男が二人。
従者を率いて歩む。
鬼公と弓弦だ。
息をするのも苦しくなるような、ぴりぴりとした気が張りつめる。
誰が心変わりしても、再び戦火の広がる恐れのある、危険な空間。
おのずと呼吸が浅くなる。
凍てつく日の朝に似ている、とサクは思った。
二人は祭壇の先の、階段を昇る。
まるで雲の上にある、天帝の神殿のようであった。
一堂は静まりかえり、一切の音もない。
玉座の前に商王と鬼公が立つ。
その後ろに、王妃たる夏華。
大将軍たる陽華。
鬼方の使者たる弓弦とサクが並んだ。
雄大な山々と、平らな大地。
約束の地はすべてが白と黒。
婦好姉妹が、緑青と真朱に彩る。
静寂を打ち消すことができるのは、会盟の主たる商王だけである。
「鬼公よ」
清らかな声であった。
「商王」
商王がまず声をかけて、鬼公が応じる。
「長きにわたる戦、終わらせることといたそう」
「鬼方から毎年、羊を千、お送りいたしましょう」
夏華が同一の甕から爵へ酒を注ぐ。
二人の王は黄金の爵を持って高く掲げた。
命を獲りあった関係である。
すぐに打ち解けるわけではない。
それでも、少しずつ。
歩み続けることで変わる関係もある。
辺境緒将を前に、二人の王が同時に当世一の香酒を仰いだ。
白と黒の旗が風に靡く。
ここに、商と鬼方の長年にわたる戦いが決した──。
◇
盟約が終わり、宴が始まった。
儀式の間、大将軍として堂々と振舞っていた婦好は、役目を終えて表舞台から姿を消す。
サクは追いかけた。
群衆からは見えない建物の影で、ぐらり、と婦好の身体が崩れる。
「婦好さま!」
サクは陽華を抱きとめた。
──身体が、熱い。
かつてない熱を帯びている。
「問題ない……が、少し、膝を貸してくれないだろうか。サクと二人で、話がしたい」
サクは言われるがまま、膝に婦好の頭を乗せた。
「婦好さま、傷口が」
「押さえて」
陽華はサクの細い手首を掴み、下腹部に当てた。
どろりとした血が脈打ち流れ続けている。
「サク。痩せたな。ちゃんと食べているのか」
「婦好さま。わたしの心配なんて」
「わたしはもう、軍人としては役目は終えた。周辺が争いを起こすことはしばらくはないだろう。ふふ……わたしも老体になってまで戦おうとは思わぬ。これでよかったのだ」
「わたしのせいで」
陽華はサクの髪を慈しむように触れる。
「あの夜を、わたしは忘れることができなかった」
「……わたしもです」
「サク。なにか思い違いをしているかもしれぬが、あれはわたしも初めてのことだったぞ」
「え……?」
「リツとは、士気に関わるから清いままでいろと、約束があったのだ」
その告白に、サクは己の顔が赤くなっていくのを自覚した。
「やはり、思い違いをしていたな。お互いが生きているうちに明かせてよかった」
「お恥ずかしいです……」
「すべて天の決めたことだ。サク、わたしの軍人としての役目はここで終わる。サクともお別れだ」
「婦好さま。なぜですか」
「戦なき世には軍師など要らない」
どきり、と心の臓が跳ねた。
己という、存在価値の否定。
──その通りだ。それを言われたら、何もできない。
婦好の傍に居ることと引き換えに、戦を止めたのだ。
「わたしも戦うことはない。サク。最後に、聞いてほしい」
「商ではお前をよく思わない者たちが、その命を狙うかもしれない。
会盟の成功は、決して商全員の総意ではない。
恨み、妬む者もいるだろう。
外に敵がなくなれば、内なる敵に矛先は向けられる。
ゆえに、わたしのもとは、危うい。
賢いサクであれば、理由はわかるだろう?
安陽ではなく、信頼できる旧知の者のもとに身を寄せなさい。
ハツネを頼りに。弓臤。嬰良。もしくは望白」
「愛していたよ。サク。本当は傍に置きたい。しかし、こうなってしまった以上は、わかるな?」
サクは問う。
「ほかに道があれば……わたしが、鬼方に肩入れしなければ、お傍に居られたのでしょうか」
「会盟を成功させたことで、多くの命を救った。
それだけではない。
このまま戦いが続けば、婦好軍……いや、商という国そのものが立ち行かなくなった可能性もある。
争いは、人を、物を、国を食いつぶす。
そなたの行動は商をも救ったのだ。
誇れ」
「婦好さま。あなたがいたからこそ、です。あなたがいなければ成し得なかったことです」
婦好の頬に、サクの涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「サク。出会えたことに、感謝する」
婦好は傷口をおさえながら、ゆっくりと上体を起こして背筋を伸ばした。
鍛えられた肢体に力を入れ、華やかな、太陽の気を纏う。
大将軍として、理想の主として、サクに別れを告げた。
「さらば」
麗しい女性は、背中を見せて颯爽とサクのもとから去った。
その先に、孔雀のような黒髪の女性が待つ。
「妹は、わたくしが連れてゆきます」
夏華は陽華に寄り添い、サクを優しい目で見つめる。
「ごめんなさいね」
当世一の姉妹が、陽の光に向かって歩んだ。
「……っ」
サクはその背を、光の中を、追いかけようとした。
しかし、踏み出そうとした足が言うことを聞かない。
がくり、と膝をつくと、婦好の血が裾を濡らした。
「そんな……ずるいです……。呪いをかけないでください……。そんなことを言ったら、わたしは」
婦好の足跡には紅色の雫が落ちて、まるで花びらを散らすかのように続く。
「いいえ。ずるいのはわたしです。戦なき世も、婦好さまも、どちらも手に入れようとするわたしこそ、狡猾でずるい女なのです」
手のひらを染めた婦好の血を肌に付けた。
──血の一滴すら、こんなにも、愛おしいのに。
「何度も、何度も、死を覚悟して、この別れも覚悟できていた、はずなのに、どうして」
「愛していた、だなんて。わたしは、いまでも」
「婦好さま……!」
「陽、華さま……」
極限の疲労と失意のなか、サクは昏倒した。




