天下の会盟(微)(8)
婦好は下腹部に剣を受けたまま、微王の背後にまわりこんだ。
後ろから微王の身体を腕で締めつける。
「婦好さま!」
その場にいた者のすべてが、婦好を心配して声を挙げる。
「誰も寄るな! これはわたしの戦いだ……」
紅の衣に鮮やかな同色がじわりと重なる。
まるで絹地の上に牡丹が花開くようであった。
婦好は微王の耳元で、誰かを呼ぶように問う。
「凶王よ。もう、良いだろう。そなたはよく玉座を務めた。商王と話がしたい。交代してくれないだろうか」
微王は婦好の腕に噛みつく。
「消えるべきは、偽物ぞ。偽物の婦好のそなたであるぞ!」
「そうだ。消えるべきは、偽物だ。わたしも同じ、影の妃だ。お前も影の王。お前は死者に仕える偽りの王だ。今を生きる本物の商王を呼べ!」
四つある深い黒目をぎょろりとさせて、微王は婦好からするりと逃げた。
「偽物。偽物……、余が、余が、偽り……。狂王にして凶王!」
微王は顔を覆い、白い衣服を脱ぎ捨てる。
黒衣を纏おうとして、また白い衣で身を隠す。
「わたし、は、二つの顔をもつ者だ」
『ああ、恥ずかしいぞ、恥ずかしいぞ』
「この問答を人が見ているとは、なんたる辱め」
『王は、狂であり凶でなければ務まらぬぞ』
「人の死は凶。人を殺し、制するは狂」
『善も悪も裏と表ぞ』
「善悪は誰が決める? 天か? 神か?」
『余が余が決めるのだぞ。それが天意というものぞ』
「会盟は天意。天意は会盟」
『そう申すか。余は知らんぞ……。消えるぞ』
「ああ。もう、必要ない……」
禍々しい気がふっと消える。
微王の器に、商王の人格の登場した。
同時に、赤い絹の道の中央を音もたてずに歩く女性がある。
姉の、婦好である。
白くきめ細かい肌。漆黒でなめらかな髪。
大きな瞳の長い睫毛は憂いを帯びる。
彼女の深い青の着物は、まるで孔雀の羽のようであった。
そこに居た誰もが、その女性を当世一の美女だと思った。
妹のもとへ、姉はゆく。
妹は、刺さった剣を一気に引き抜く。
片膝をつき、息を整えた。
黄金色の剣が足元の血だまりに反射する。
傷を負った薄茶色の髪の麗人の隣に、
黒髪に緑青の美女が寄り添う。
その場に居たものはみな、まるで神話の世界のようだと固唾を吞んで見守った。
「ありがとう。妹よ。遅くなりごめんなさい」
姉は優しく妹の肩に触れた。
「姉上……」
「娘を守ってくれてありがとう」
姉の婦好は、両手を広げて、包み込むように商王に寄り添う。
「人は皆、葛藤を持ちます」
それは天女のような声であった。
「あなたの葛藤は、清濁併せ呑む大邑商を治めるのに必要なものでした」
その場に居る者のすべてを癒し、包むように言祝ぐ。
「いまはあなたのやさしさが必要です」
全軍の総意を代弁するようであった。
「婦好」
商王はその名を呼んだ。
まるで天帝の妻のような女性が、ふわりと羽のような袖を広げる。
「わたくしの本当の名は、夏華」
「わたくしの血の半分は、父の好邑のものです。しかし、半分は母の、失われた夏王の末裔の血」
「夏は、かつて商に敗れた亡き国です」
「わだかまりは、時を要しますが、いつか必ず解けます」
「わたくしが、祖先神の意志を超えて、いま、あなたを愛しているように」
夏華の輝くような肌に支えられて、商王は、ゆっくりと立つ。
「……我が妻、夏華よ。会盟を諾するか」
夏華は優しい笑みを浮かべる。
商王は声を発した。
「天がそのように申すからではない。わたしが決断したいから、応じる」
商王が、両腕を空に高く翳す。
まるで天を奉戴するように。
青き天と白の龍を手中に収めた。
太陽もまた、袖のなかだ。
その場にいた誰もが、彼こそが麒麟だと思った。
「──ときは来た」
「今、凶王は失われた」
「我が方、商は鬼方と盟約する」
「天帝よ! この日を境に、人の罪のすべてを赦し給え」
「天よ! この善き日に祝福を──!」




