天下の会盟(甲)(9)
微王、婦好、サクに向かって伸びる紅の絹は、まるで地上にできた華のようであった。
まず、言葉を発したのは、柔らかな顔の、白髪と黒髪が混ざった髪の男である。
「ほあっはっはー! 献上に参りましたぞー!」
サクは驚いて婦好を見る。
「婦好さま、これは一体……。まるで事前に用意されていたかのような」
「サク。お前の考えなど、お見通しだ。何年導いていると思っている」
「ほぁっはっは! 商王よ。おひさしゅうございます。婦好さまのよびかけにより、老いぼれめが馳せ参じましたぞ」
沚馘と嬰良である。
百人ほどの隊列を組んで、堂々と歩く。
彼らも白色の正装である。
後ろを歩く従者たちが、大きな亀を抱く。
微王の前の祭壇までくると、恭しく跪いた。
沚馘の息子たる嬰良が声を張り上げる。
「沚馘邑の嬰良と申します! 我が邑からは、三千年を生きた亀と、羊を百、献上いたします!」
微王が返答する。
「おう。沚馘、久しいぞ。嬰良とやらも大儀である。その亀の背のもので吉凶を占ったら歴代の王も喜ぶことぞ」
次いで、二本目の道を歩くのは、望白である。
望白は智者の笑みを浮かべている。
従者百名。
彼らは南方特有の色とりどりの刺繍の衣で参じた。
複数の従者が白い虎を引いている。
「望乗の子、望白です。望邑からは、こちらの珍しき白き虎と、我が邑自慢の美酒を捧げましょう。以後、お見知りおきを」
白虎が吠える。
微王は珍しいものを見て、恍惚の表情をした。
「ほう。これは余の好みぞ。飼いならすこととしようぞ。望白とやら。そなたは婦好と同じ匂いがするぞ。のちほど酒を交わすぞ」
次に、東から少女が現れた。
倉邑のユイである。百名の工人と自警団を連れている。
みな、黄銅の鎧を纏っていた。
ユイは初めての大舞台にも物おじせずに、沚馘と望白の隣に並ぶ。
「倉邑、倉候豹の娘、ユイです。希少な孔雀石を用いて、龍紋を施した、当世一の武具一式の献上に参りました。どうかお受け取りください。また、倉邑の工人が数名おります。安陽と製銅の技術の交換を申し出ます。ご検討のほどを」
微王は喜んだ。
「銅の香りのする猛き少女よ。婦好の真似か。倉邑の銅は当世において比肩なき技術ぞ。新しい領主には、よく礼を申すのだぞ」
西からは、トコトコと幼き子供が歩く。
「父上」
姉の婦好の子──王女。婦好の姪であり、微王の実子である。
小さな手のひらに紅の絹を乗せ、精巧な細工を施された翡翠を包む。
鳳凰である。その後ろには、従者の持つ孔雀がいる。
「好邑より、しょーぐんより、預かりました!」
微王が目を細める。
「我が子よ。大儀であったぞ」
北より。沚馘邑からの三千年の亀と犠牲の羊。
東より。倉邑からの龍紋の黄銅の剣。鎧。矛。武具一式。
南より。望邑からの白き虎と香酒。
西より。好邑からの鳳凰を模した白濁の翡翠。孔雀。
微王が順々にその顔をみて、辺境よりの客人に謝意を告げる。
「奇しくも四方から次代の若者がここに揃った。国の若さは力である。これは我が治世の安寧を占う慶兆ぞ」
婦好もまた、ひとりひとりの顔をみて、華を香らせるように微笑む。
「わが友よ。招聘に応じてくれたこと、感謝する!」
旧知の戦友たちの、優しさに満ちた瞳が、サクを見つめる。
「みなさん、……ありがとうございます」
婦好は天に向かって麗しき声を響かせた。
「天に問う。鬼方との盟約を結び、戦いを収め、あまたの罪を赦すべきか。この問いを諾するならば、天の瑞祥よ! ここに姿を現すがよい! 我が巫女。サクよ。天地を観察して所見を申せ!」
婦好が天に向かってその手を開いた。
サクは天地の間の事象により吉凶を占う。
白き兵の居る白き大地の先に、遠く、霞んだ低い山々が見える。
婦好の指の先、白濁の空に天頂に向かって青みが差す。
微王の頭上に、一本の長い雲が出現していた。
この機を逃してはならない、とサクは直感した。
サクは父の魂の仕業に違いない、とも──。
「龍です……! いま、天に龍が昇っております。龍の雲は、吉兆です!」
婦好もまた微王に問う。
「さあ、微王よ。これを祝福と言わずして何が天の代弁者か!」
微王は口を開けて、喜ぶ。
「ああ……そのとおりぞ。東西南北の吉祥がここに集い、さらに龍神の祝福まで受けることになろうとは。これは三千年の吉兆ぞ。中央には麒麟がなくてはならないぞ。麒麟だぞ」
「麒麟はそなたではない。そなたでもない」
婦好、サクと続けて顔を合わせる。
「余だ。余が麒麟、ぞ」
宣言したところで、微王は、頭を抱えて苦悩する。
「ああっ。麒麟は殺生を嫌うぞ。この慶事に、万物は生まれなければならない。ふさわしいのは死ではないぞ。死ではないぞ」
微王が腰を曲げる。
その拍子に、巫祝・南の、鏡のような瞳が空中を舞う。
その視線に微王は、バチリとした稲妻のような閃光を見た。
「ああ! ここにあるのは、麒麟ではない。麒麟ではないぞ。殺生を好む、凶の器ぞ。凶。凶。凶」
「微王!」
婦好が声をかけた。
「麒麟は商王自身だ! 善の人格たる商王に戻るがよい!」
微王は狂乱した。
「そうだ! その通りだぞ! すべて消えるべきぞ!」
微王は階段を駆け降りて、ユイの捧げた銅剣を掴んだ。
「消えよ! 消えよ!」
微王は四方を踊るように斬りつける。
「ユイ!」
婦好の呼びかけに、望白がユイを庇う。
「お嬢さんはこちらへ!」
「あはは! あははははははははは!」
客人はみな、微王を避けた。
婦好は一万の兵を言葉で制す。
「客人は速やかに逃げ、兵はみな、その場で待機せよ! わたしの責任のもと、対処する!」
婦好は望白と背中を合わせた。
「望白よ。みなの安全を頼む」
「婦好さん。商王はなかなか愉快な人のようだ」
「望白よ。しかし、だからといってなにか不都合はあるか?」
「ないです。むしろ、好ましい」
倉邑のユイが叫ぶ。
「王よ! やめてください! このために、わたしたちは我が子のような銅剣を作ったのではありません!」
微王は答えた。
「うるさい! 人を滅ぼすためのものを作っておいて、いまさらなにを言うか。全員同罪ぞ!」
望白も挑発する。
「商王! あなたがここで人を殺せば、僕の代になったとき、望邑は商との同盟関係を考えなおすことにします!」
「うるさい! 今一度、名を名乗れ! 覚えてやる!」
「僕は望白と申します! 我が望邑は、商の王が名君なればこそ同盟する! たとえ外敵とされようとも、友を選ぶ権利は我々にあります!!」
「微王は、わたしが止めよう」
婦好が紅の衣を靡かせて微王に近づいた。
武器も防具も身につけていなかった。
サクは胸騒ぎがした。
嬰良が倉邑の献上物の矛を投げる。
「婦好さま! これを使ってください!」
婦好は片手で受け取った。
「嬰良! 感謝する!」
「微王よ! ここの者に危害を加えるのならば、わたしと手合わせとしよう」
「婦好! 余に盾突く気か! 武器を取れば、そなたも反逆者の汚名を着させるぞ! お前だけではない! お前を信奉する、ここに居るものすべてだ!」
「……わかった。それならば武器などなくて充分だ」
婦好は矛を投げ捨てた。
素手で微王に立ち向かう。
微王の攻撃を、婦好はすべて躱した。
「婦好よ。良いぞ、良いぞ。それでこそ我が偽りの王妃。余の半身も、そなたのように軍を率いて、臣下に慕われる主君になることを密かに憧れていたぞ」
「微王よ。
王は天の声を訊き、先祖の願いを利き、臣下の願いを聞き、民の声を聴いている。
微王という人格は、王たる責務すべてに応えようとするための商王の鎧だ。武装を解き、商王に戻るがよい!」
「鎧などではない。天の意志・祖霊の意志が余ぞ! 代々、王の血を受け継いできた、子としての責務を守るのだぞ!」
「その呪縛に苦しめられていることに、なぜ気がつかぬ。誰かの指示に基づく意志など、偽りだ! わたしの巫女が教えてくれた。本人の意志が、天の定める道だ!」
「黙れ! お前もずいふん加担していたではないか! 余と同じことぞ!」
「そうだ、罪は消えない。過去の過ちを償い、未来に罪を犯さない。今できることを、やるしかないのだ!」
微王は動きを止めて、周りを見た。
みな、彼を恐れおののき距離をとる。
己の理解者の無きを悟り、慟哭した。
「ああ。誰も余を理解せぬ……。誰も祖霊を理解せぬ……。孤独ぞ。人は自分のことばかりぞ。玉座というものは、寒く、凍えるものぞ。親の骸は子。余は父母の骸。余は一族の魂を負っているのだぞ。我が身を罰するぞ。凶の凶は吉。裏の裏は表」
微王の言葉に、サクの巫祝の血が騒いだ。
王は凶事に凶事を重ねて表にするつもりだ。
とすれば、一番に狙われるのは──。
サクは走った。
微王が婦好との対峙をやめて、目的の方向へ躍るように跳ねた。
サクのほかに、微王の真意を読めている者はいなかった。
──凶事。すなわち。子殺し。
サクは婦好の姪たる王女を守るため、幼き命を強く抱きしめた。
──絶対に、守る。なにがあっても。
「王よ! 罪を重ねてはなりません!」
サクは必死に叫ぶ。
「うるさい!」
「サク!」
婦好もまた微王を追う。
王女とサクの前に婦好が立ちはだかる。
その瞬間、微王は長剣を両手で握り、一直線に突いた。
黄銅の剣が、婦好の下腹部を貫く。
「婦好さま!」
剣に婦好の鮮やかな血が伝い、白き大地を紅色に濁した。




