天下の会盟(上)(10)
ハツネの毒を、サクは喉に手をねじ込み吐いた。
「っ……。わたしが、行かねばならないのです。絶対に……」
「サクさま……」
「ハツネ、お別れです。あなたは、とても優秀な人です。わたしよりもずっと。ハツネなら、どこにでも行けます。どうか幸せになって」
「サクさま……。わかりました。せめてサクさまの身に起こったことを婦好さまに急ぎ伝えます」
サクは無言で笑顔をみせ、背中を向けてその場から立ち去る。
ハツネは感情を露にして叫んだ。
「わたしは、わたしたちは、サクさまには生きていて欲しいのです! それは、婦好軍全員の総意です!」
感情を表にださない彼女にしては、珍しいことであった。
◇
会盟までは生きねばならない。
もはや、どこに毒があるかわからない。
サクは一匹の羊の乳のみを口にした。
「まずは、微王を説き伏せます。わたしに行かせてください」
サクは弓弦と盟約に向けての相談をする。
「俺も行こう。それよりも、お前はちゃんと物を食え。誰も毒などは盛らぬ。手首がこんなに……」
弓弦はサクの枝のように細くなった手首を握った。
「いいのです。商と鬼方の神の前に立つからには、食べるものも含めて、できるだけ身を清めておきたいのです。願掛けでもあります。義兄さまは、わたしがもし失敗して命を落としたら……。次策です」
「俺はお前の予備ということか。了解した。とにかく、お前はいますぐ粥を食え。神とやらもそのくらいは赦すだろう。約束の日まで、もたんぞ」
◇
約束の日が訪れた。
サクは鬼公と弓弦とともに馬車に揺られて約束の地に赴く。
弓弦と鬼公は、何かあればすぐに撤退できる地で待った。
白い旗。白い門。白い兵。
まずはサクが一人で、この日のために用意された白き道を歩む。
サクは、鬼方を表す黒い衣を纏った。
弓弦がこの日のために用意をした。
黒衣に、金の刺繍が施される。
長い裾と袖は将軍の寵姫の格の着物である。
衣は、その者の政治的な立場を表現する。
捕虜というよりも、使者としての役割を示すためである。
サクの部下も、付き従った。
空まで白く光るような日である。
サクが白い門をくぐるとき、逆光のなかでくるくると踊るものがあった。
「ひっ」
腐った髭面の首が掛けられていた。
呂鯤のそれである。
死の間際、舌を出し、目を刮目し、恨みに憤怒していたことがわかる。
ぞわり、と肌が粟立つ。
──ここは、死地だ。
武器を持たない、死への舞台。
門の先には、およそ一万の兵士たちが白い一本道の両側に起立している。
まっすぐに進むと、中央に祭壇があった。
祭祀のための犠牲、羊。牛。豚。兎。犬。鳥。魚。
黄銅の祭器。翡翠。貝。宝石。
当世のあらゆる最上級の品々がそこには並んでいた。
高き階段の先、黄金の椅子に微王が悠然と座している。
「愚か者の、裏切り者め。のこのこと現れたのか」
微王は、白い衣を何重にも重ねて纏い、まるで天帝のような恰好をしていた。
「そなたの父は死んだぞ」
高い祭壇から、サクを見下ろす。
「ほら、よく見るのだぞ。この目玉はだあれだ?」
微王が童歌を歌うように、父の瞳を上下にぶらぶらと揺らす。
「余は巫祝・南の瞳が大好きだったぞ。鏡のように、真実を映すぞ。この目玉はこの会盟は楽しいものになると予言したぞ。だから、抉り取って見せてやるのだぞ。この会盟は、そなたの父の血でできているのだぞ。愉快、愉快ぞ」
サクは燃えるような感情を封じ込めた。
かつての主君であるが、親の仇となっては憎しみで心身の指先までが染まる。
しかし、会盟を成功させるには、心を殺さねばならない。
父の命も報われることがない。
「くくく。ははあ。いまの気持ちを聞かせてほしいぞ」
「わたしも、お父さまのもとに、すぐに向かいます。ですから、死は別れではありません」
──死は別れではない。別れでは、ない。
それはかつて婦好が言っていたことである。
「その目、よいぞ。よいぞ。この目玉と同じだぞ。娘も欲しいぞ。親子で欲しいぞ。知っているか? 魄──肉体がなければ、魂の復活はないぞ。お前の父は永遠に失われたぞ」
狂人が瞳の奥を覗き込んだ。
気味の悪い四つの黒目に見つめられて、サクに涙が溢れる。
──なぜ、多くの人の命を救おうと熱望しているのだろう。
どのようなことも無視して、父と穏やかに暮らしていればよかったのではないか。
「至高の表情ぞ。このまま首を撥ねて腐らぬように乾かし、広間に飾ろうぞ」
「約束が違うぞ、微王!」
婦好が白き兵たちの間から、階段の下に躍り出た。
婦好もまた、戦場とは違う装いだ。
白い着物の上に、紅の絹に金の刺繍を施した重厚感のある衣を纏う。
防具は付けずに、大将軍としての最上級の礼装をしていた。
「その娘はわたしの部下だ。微王よ。その処遇はわたしが決める」
微王は、ちっちっち、と舌で音を立てて額に青筋を立てる。
「この娘を庇うと申すのか。こいつは大罪人ぞ。こいつが死ねば、天も喜ぶぞ。まず眼を抉り、鼻を削ぎ、髪を抜き、耳をちぎり、口を縫い、指を一本また一本と切り落とし、余が余が嬲るのだぞ」
「この娘を贄とするのであれば、わたしもともに会盟の贄としてこの身を捧げよう。サクと話がしたい。しばらく、刻をもらおう」
「ほーん。そなたといえども、ただではないぞ。のちほど代償を払うのだぞ」
婦好はサクのもとに駆け寄る。
「サク!」
「婦好さま!」
サクの身は婦好の紅の衣に包まれた。
「サク。生きていてくれた。それだけで嬉しい」
「申し訳ありません。婦好さま。わたしは、あなたを裏切りました」
「ハツネから聞いたよ。サクはわたしの軍師だから、導き出すのはいつだって最善の答えだ。信頼している。なにがあっても、わたしが責を負うと言ったであろう。己を犠牲にして勝利に導こうとしたのは、さすがに憤慨したが……」
「婦好さま。わたしに与えらえた時間はありません。端的に申し上げます。わたしは、この戦いを止めたいのです」
婦好はサクの細い腰を抱いて、首を傾げ、次の言葉を待った。
「戦いを止め、婦好軍からこれ以上の生贄を差し出すことはしたくないのです。もう、誰も死ななくていい。そして、婦好さま。わたしにはわかります。あなたの本当の望みは、戦いたいという思いではありません」
「本当の望み、とは?」
「あなたの真の願いは、未知なる世界を知ることです。最初から、そうだったのです。出会ったときに、わたしにおっしゃったこと。『まだ見ぬ土地に何があるのか見てみたい』。その想いです……!」
サクは婦好の大きく柔らかな胸に、そっと頬を預けた。
「軍隊を率いなくても良い。旅に出れば、良いのです……いつしかのように、遊学の士として、友好を願いながら。婦好さまのお姉さまの地位も、かつてないほどに高まったといいます。婦好さま。あなたはもう自由になっていいのではないでしょうか」
婦好はサクの黒髪を丁寧に撫でる。
「未知なる世界か。……良いかもしれん。サクが戦いを止めてくれたら、ともに海でも見に行こうか。わたしはまだ大海を臨んだことがない」
「婦好さま……」
サクの目の前が滲んだ。
──そんな日がいつか来たら、どんなに幸せなことか。
希望は呪いだ。決意を前に、甘い想像をしてはならない。
「申し訳ありません。わたしとともに、というのは叶いそうにありません……」
サクは婦好から身を離した。
琥珀色の瞳と、目を合わせる。
「大多数の命を救うために、わたしが、この会盟の贄となります。わたしが死ぬことで、戦が終わるのなら。この命を差し出したいのです」
「一人の命で大多数を救うなど、お前はどれほど傲慢なんだ。サク。わたしはそなたに生きてほしいと願う者だ」
「しかし……わたしには、もう命を賭けるしかこの会盟を成功させる術はないのです」
「心配ない。サクはわたしの巫女だ。わたしが助けよう。いつしかの羊神判のときのように。わたしが約束を違えたことはあるか?」
婦好は、サクを強く抱きしめて囁く。
「愛しているよ。サク。誰かの身代わりなどではない。生きていてくれてありがとう」
婦好は微王に向かって、全軍に響かせるように低く奏でるような声で告げた。
「商王よ! わたしより、この善き日に瑞祥の品々を献上しよう! 天の意志はそれらを眺めたのちに決めるがよい!」
婦好の合図に、婦好隊の一員が紅色の巻物をくるくるとだし、祭壇のある南に向かって四つの道を作る。
道の先に、日傘つきの馬車が四つ止まった。
婦好の招聘を受けた人物が、深い赤に染まった絹の四本の道をゆっくりと歩く。
サクの見知った人たち──しかし、決して交わることのなかった友がそこに立っていた。




