願いの生贄(11)
商と盟約を結ぶことを任された。
すなわちサクは鬼方につき、大邑商を、婦好を、裏切ることになる。
サクは一人きりになって、柱の木目を数える。
己の決断と先行きに身体がずんと重い。
「婦好さま。まさか、あなたと対峙することになるなんて」
婦好とはもはや、主従関係ではない。
父の身も危うくする。
「しかし、やるのです。これはきっと義兄と、わたしにしかできない役目」
天がそう命じているに違いない、などと、都合の良い思い込みをして己を騙すしかなかった。
鬼公の許可のもと、弓弦は『書』を乾いた竹に刻んだ。
『捕虜を返す。商王と終戦の取引がしたい』
文字は、商王と巫祝にしか読めない。
商の禁忌。
弓臤とサクが記したものである。
◇
『書』を受け取った微王は、口角をにたりと上げた。
片手でばきりと竹を砕く。
「不浄! 不浄! 不浄! 燃やすのも忌々しいぞ。馬の血と皮をもて! 川に流すぞ!」
微王は生きた馬を用意させ、心臓を突き刺し、ばらばらに砕けた竹のかけらを内臓に入れて、殴打した。
「神聖なる言の葉をこのように使うとは、余は決して赦すことはないぞ。今すぐ川に流せ。今すぐ、ぞ!」
隷人たちが馬を安陽を流れる川まで運ぼうとする。
微王は待ちきれずに、土手のほとりで隷人を蹴り落とし、男ごと水に流した。
「赦さぬ。赦さぬ。赦さぬ」
微王は安陽の宮を縦横に駆ける。
「誰ぞ。誰ぞ。誰ぞ」
微王は宮殿の隅から隅、会う人々に問うて行く。
「おまえか」「おまえか」「おまえか」
巫祝の長が、恐れおののきながら答える。
「……わ、わ、わたくしめが、鬼公に通じているとは、そのようなことはありません……」
「それもそうだぞ。お前ではない。気の小さなクズのお前のはずがない」
歩き回り、ふ、と筆跡を想いあてた。
「弓臤。と、婦好のところのあの女ぞ。南を呼べ!」
サクの父、巫祝・南のもとに兵が取り囲む。
南は一通りのことを聞いてから死を悟った。
「恐れながら、わたくしは逃げも隠れもいたしません」
南は兵に捕らえられ、微王のもとへ連行された。
安陽の中心部に位置する、祭祀のための廟堂。
祭祀の間で、黄金に輝く礼器が猛禽類の大きな瞳を輝かせながら、微王と南を見下ろした。
サクの父は微王に対して拝礼する。
微王はイライラとしながら、足を上下に揺する。
南は口を開くなり、粛々と述べた。
「王は文字を受け取ったとのこと。文字は神々が扱うものと聞いております。であるならば、天がそのように意図し、申しているのではないでしょうか」
「くくく、南よ。よい度胸だ。面を上げよ」
微王は黄銅の長剣を南に突き立てて、ひたひたとその白い肌に当てた。
巫祝・南は、動じることなく淡々と回答する。
「王よ。天に光り輝く我らが王よ。捕虜とはおそらく、わたしの娘のことです。この取引に応じるなら、わたしは喜んで犠牲となりましょう。この身体で最も価値がある部位はどちらでしょう」
「十三夜の月の瞳。そなたの瞳を、余は好いていたぞ」
「ではこの瞳を捧げましょう。この血に免じて、会盟の場を設けてくださいませぬか」
微王は足音を立てながら南に近づき、右手で左目を抉る。
ぶちぶち、という音が響く。
「血が足りぬ。お前の代わりなど、いくらでもいるぞ」
抉りだした瞳を右手でぽんぽん、と投げて遊ぶ。
「王よ、王。お伺いします。鬼方との、このような会盟。かつてありましたでしょうか」
「あってたまるものか、考えただけで忌々しいぞ」
巫祝・南は半分が血だらけになった顔で、さわやかに笑う。
「もしかしたら、とてつもなく愉しいのではないでしょうか」
「愉しい?」
微王はサクの父を上から睨む。
こめかみに青筋が立ち、赤い化粧と色が混ざる。
「先例はありません。何が起こるのか、誰にもわからない。もし。誰も経験したことがないような、愉快な会盟になるとしたら、その機会をみすみす見逃すことになりはしないでしょうか」
「ほーう。ふむふむ。では、その愉快な会を提言したお前は、それをどう保証する?」
「保証などと。王への一言はいつだって命の重みと同じです。他の巫祝も同じことです」
「であれば、この場で自刃せよ。されば、その望みを叶えてやってもよいぞ」
「承りました」
微王は、はたと、止まった。
何か、妙案を思いついたように、あああっと息を吐いた。
「天意を汲み取ったぞ。鬼公を捕らえて見世物にするが最も楽しいことぞ」
微王はその場で三度土を踏んで、踊った。
「それがいい。それがいいぞ。さあさあ、南よ。その命散らすのだぞ」
「王よ。死の前に、一つ、お話しておきたいことがあります。我が娘サクが生まれた時、わたしはその宿命を占いました。彼女は『天をも動かす宿命をもって生まれた』ものです。いまならわかります。この会盟の実現こそ、そのときだとわたしは確信します。サクの命は、必ず万人の命を救うことになりましょう」
微王は耳を穿りながら聞く。
「ふーん……人は誰もがそのように言うぞ。しかし、ほとんどの人間がなにも為せずして無力のうちに虚しく死ぬものぞ。目障りぞ。お前も、早く命を絶つのだぞ」
微王の前で微笑みながら、サクの父は跪く。
「サク。そして弓臤。わたしにできるのはここまでだ。おまえたちの決断にわたしの命が役に立つなら、それに勝る喜びはない」
正座して剣を鞘から外した。
胸の位置に、剣を掲げる。
「天よ! 我が命をここに捧げましょう。この血が多くの命を助け、子の望みを叶えることができるのであれば、悔いはない。天地の神々よ、我が血を盃の酒とし、鬼方と盟約することをここに祝福しましょう!」
サクの父は自らの首に剣を突き立てて、勢いよく刎ねた。
「よいぞ、よいぞ、よいぞ。祭りぞ、祀りぞ、奉りぞ、ははは、はは、はははははははは」
微王は三度亡骸を蹴って踊り、足で血と遊ぶ。
サクの父のもう片方の目をくり抜いて微王は腰に巻きつけた。
「巫祝・南よ。愉しい楽しい会盟を、もっとも善き席で見せてやるぞ」
南の亡骸は馬の革袋に入れられて、川に流された。
◇
弓弦が一連の報を受け取る。
「サク。微王が会盟に応じた」
「義父の命と引き換えだったそうだ」
「父の、躯は」
「微王によって川に流されたそうだ」
サクは決意した。
必ず会盟を成功させなければならない。
◇
夕暮れ時に、ハツネがサクのもとへ現れた。
「ここにいらしたのですね。サクさま。よかった。ご無事でなによりです。さあ、わたしとともに帰りましょう」
ハツネは、サクの袖を引く。
サクは頭を振って拒否した。
「ハツネ。婦好さまにお知らせください。わたしはわたしの意思で、鬼方につき、商と盟約を結ぶことになりました」
サクはハツネに、一連の出来事を語った。
婦好へ伝えてもらおうとしたためである。
「そうですか。サクさまは、鬼方に寝返るということですね」
ハツネは、ふっとサクの視界から消えた。
「では、サクさま。さようなら」
ハツネが消えたと思ったのもつかの間、サクは唇を奪われる。
「ハツネ……? なにを、」
サクには、口に入れられたものに覚えがあった。
「これは……、毒……」
「申し訳ありません。サクさま」
ハツネはサクを抱きかかえながら、告げる。
「実は、シュウさまの用意した護身用の毒もこの眠り薬に代えておりました。死ぬよりは眠っていたほうが、苦しみは軽くなるでしょう?」
「ハツネ……」
「サクさまは、生きてください。儀式は、わたくしが執り行わせていただきます。身代わりとなって」




