鬼公(12)
鬼方本陣の最奥に、鬼公は座していた。
「鬼公。戻りました」
弓臤が声をかけるや、鬼方の首領は立ち上がり、両腕を広げて彼を歓迎した。
「弓弦! そなたの活躍、いつもながら見事である。どこも怪我はないか」
烏のような黒衣が、弓臤を包む。
「ええ。大丈夫です」
義兄が頬を染めている。
サクと婦好には見せたこともない顔だ。
同時に、『弓弦』が弓臤の本名であることをサクは初めて知る。
鬼公は、長身かつ眉目秀麗。
長い黒髪を一本に高く結んでいる。
二十代後半の好青年である。
雰囲気はどことなく婦好に似ている。
義兄は鬼公を慕っていて、鬼公もまた弓臤──弓弦の才を頼んでいる。
戦場で見る鬼公は威風堂々としていて、敵ながら見事にも感じたことを思い出す。
過去に戦場で見たときも、まるで婦好さまとは甘美な遊びに興じているようであった。
今日、眼前にいる人物も確実に英傑である。
サクはぐっと、その身を引き締めた。
「先日報告した者を、連れてきました」
「婦好の乙女か。戦場で何度か見かけたことがある。弓弦の義理の妹になったとか。弓弦の妹なら、わたしの義妹も同然だ。ふふ。この男に、いじわるはされなかったか」
鬼公の奏でるような低音は婦好と同じくらい、魅力的だ。
「鬼公。俺を使って戯れるのはやめてください」と、弓弦が止める。
「ははは。悪かった」
鬼公は弓弦の背中をバシバシと叩く。
その闊達なふるまいに、義兄が惚れこむのがわかる気がした。
「鬼公。この者を連れてきたのは、そろそろ戦いの潮時だと思うからです。呂鯤も張達も死にました。これ以上、いたずらに戦を長引かせるのは得策とは言い難い」
「ふむ。どうだろうか。商王は応じるだろうか」
「微王は好戦的で気まぐれ。婦好の後ろ盾をもつ、この者にかかっている部分もあります」
鬼公はサクをじっと見つめた。
サクが目を合わせると、弓弦の主は整った目尻を下げてくしゃりと笑う。
「さて、戦場の乙女よ。わたしから何か聞きたいことはあるか」
「では、恐れながら……鬼方は、なぜ商と戦っているのですか」
「ふむ。商と戦うことは、二点の利がある。我が連合体は、生産できる食糧に限りがある。口を減らすには、戦争が最も効率が良い。
そうだ、誰か……二人に酒を」
鬼公は、部下に命じて飲酒の器を用意させた。
同じ甕から、三つの器にそれぞれ注ぎ込まれる。
鬼公は話を続けた。
「鬼方のほとんどの集団で、次男三男は羊を引き継げない。羊を守り、共倒れを防ぐため、羊を飼うことのできない男性は戦場に送る。繁殖の末に天の恵を喰い潰すことを防ぐためだ」
「人を減らすため……あなた方は商と戦っていたということですか」
鬼公は頷く。
「対して、商は多くの犠牲を必要としている。たまに鬼方から人を攫われるが、かえって都合の良いことでもあるのだ。そなたたちの軍にも、そのような娘は多かったのではないか」
「それは……」
「商は、生贄を持って天に捧げ、周辺諸国に影響力を広げるために戦う。
一方、我が鬼方は、同じく南の暖かい土地を目指しながらも商に搾取される周辺諸国をまとめる。商と戦う最大勢力として、影響力を強化する。それと先ほど言った口減らし。これが戦いの理由だ」
酒が配られた。
渡された酒器は、商では『觚』と呼ぶものである。
商のものとは違うと一目でわかる。
銅の質。紋様の精巧さ。
商よりも、かなり劣る。
首領が使う物としては、商ではありえない。
もしこの觚を微王に差し出したなら、不敬として首が飛ぶだろう。
悲しいまでの技術の差で、この男たちは商に抗いつづけていた事実にサクは直面する。
二人の男が觚を掲げて酒を味わう。
サクは飲むふりをして、鬼公への問いを続けた。
「人の数を調整するため、周辺国への影響力の強化のため。
つまり、商と鬼方は戦うことで利害が一致している……共存関係にあるのですね」
「そうだ。戦をすることで、お互いに益をもたらす。だから、儀礼の中で神々の名のもとで戦うのだ」
鬼方はいくつもの異なる部族をまとめている。
その事情からは理解できる。
理解はできるが、感情が追いつかない。
――人の命とは。
サクはぎゅっと觚を両手で握りしめた。
そんな理由のために、いままで仲間は死んできたのか。
己も、命を賭してきたのか。
婦好さまの命を危険に晒してきたのか――。
弓臤の罠にかかるようで癪に障るが、サクは決意した。
持っている觚もまた、敵国の苦しみを抱えて、まるで涙を流すようにサクの手のひらを湿らせる。
――この戦いを、止めよう。
決断と引き換えに、失うものを想う。
お父さま、ごめんなさい――
この決断は必ず安陽にいる父を危険に晒す。
それでも、やらねばならぬと、サクに住まう神が命ずる。
いつか、婦好と語ったことがある。
『戦禍によって人の血が流れない、世』
いま、ここで実現できるのなら、賭けてみようと思う。
「この戦いで、お互いの目的はすでに十分に達成しました。いまは、戦いを終わらせたほうに益があるはずです」
「ほう。その理由は?」
「いたずらに戦いを長引かせることは得策ではありません。周囲の民族。商や鬼方のみではありません。ふたつが戦い、結果的にともに弱体化してしまえば他に覇を狙う勢力は絶えないでしょう」
「凡庸な回答だ。聞くに値しないな」
鬼公はサクの言をばっさりと切り捨てた。
鬼公は、思考の癖は婦好に近い。
サクは秘策を繰り出さねばならぬと思った。
「鬼公。いま、終わらせれば、『史』にその偉業が残ります」
弓臤がサクと鬼方の間に入って遮る。
「おいおい、愚か者め。黙って聞いていれば……。鬼公。大変失礼いたしました。この小娘を貴方に引き合わせたわたしが愚かでした。もう、よい。お前は下がれ」
「史、とは?」
静止する弓弦を押しのけて鬼公が身を乗り出す。
鬼方の英雄が、興味を示した。
弓弦がこめかみに手を当てて、長いため息をつく。
その隣で、北方勢力頭領の偉丈夫が目を輝かせている。
「ふふ……そうですね。弓弦さまは、以前『史』を権力者が最も欲しがるものとおっしゃっていました。『史』とは商の秘儀です。未来の人の間に語り継がれる事柄です。『史』へ名を刻むこと。商との会盟の条件として提案いたします」
「『史』とは、それほどの価値があるのか」
「人の生はおよそ五十歳。人は永遠に生きたいと願います。しかし、天は人に死を与え、永遠に生きることを許しません。もし『史』にその名が残れば、永遠を生きることができます」
「おい!」
弓弦がサクを制した。
「鬼公を、『史』として残すのは、この俺だぞ」
サクは、弓弦の子供じみた所作に、ふわりとほほ笑む。
「もちろん、史を残すのは、我が義理の兄。弓弦さまです」
英傑が、端正な顔で、にっと笑った。
「それは面白そうだ。そういうことなら。戦いを終わらせよう」
人を魅了し、引き込むような笑顔は、婦好さまと同じだ。
義兄の気持ちがサクにはわかる。
人生において、人と出会う順番は行くべき方向を狂わせるものだ。
「商王に会盟を持ちかけたい。弓弦。サク。よろしく頼む」




