遥かなる草原(13)
「なぜ、義兄さまは鬼公を慕うようになったのですか」
サクはまっすぐに、弓臤へ問う。
彼はすこし、居心地の悪い顔をした。
先ほどの世話役の少年がぱたぱたと寝台の周りで掃除を始めたからである。
「歩けるか。その辺を案内したい」
サクは簡易住居の外に案内された。
「ようこそ。鬼方へ。サク殿」
ざあっと、草の匂いがサクの身体を吹き抜ける。
鬼方の黒い旗が多くあり、夕餉の煙があたりを包む。
いつの間にか、捕らえられて鬼方の本陣まで来てしまった現実を、サクは実感した。
弓臤が、一匹の羊を抱える。
ふわふわとした毛皮と丸々とした肉は柔らかそうである。
「ほら。先ほどお前が飲んだのはこいつの乳だ。この通り、健康そのものだ。」
前足を拘束された羊はメエェ、とじたばたと抗議する。
「ふふ。かわいいですね」
思わず笑みがこぼれる。
弓臤が羊を地におろすと、羊は群れに帰った。
「口にするものはすなわち、人間の強さに現れる」
「北の民は、南を目指す。求めるのは、冬の暖かな太陽と水で潤う豊かな土。より良い土地への情念に駆られる運命なのだ」
一通り言い終わると、弓臤は光を失った左瞼を掻いた。
「先ほどの答え。鬼公を慕うようになった理由だが……。
掃いて捨てるような話だ。子供の頃、凍えて死にそうになったところを鬼公に拾われた」
彼は続ける。
「お前は商の生まれだが、もしお前が俺と同じ立場なら、同じように慕っていただろう。鬼公はとにかく器が広い。こちらが爪を立て牙を剥こうがその広大なる器のなかに納めてしまう。考えかたは婦好に似ているかもしれん」
「鬼公は、鬼方の首領である。鬼公の名は、血で継承されるものではない。北方で最も首領に相応しい者が鬼公の名を継ぐ。彼は、若年にして鬼公を継いだ方だ」
「襲名には、弓臤さまの暗躍もあったのでしょうか」
「いや……。すべては、あの方の資質だ。鬼公を慕う者は当然多い。ただ、俺が他者と違うのは、鬼公の役に立つために、眼を穿ち性器を断じて商王に近づいたことだ。
今から話すこと、聞きたくなくば耳を塞げ。
……嬉々として俺の身体に術を施したのは微王だ。俺の目玉をあいつは食べたぞ」
「それは、聞きたくありませんでした……」
サクは耳を塞がなかったことを後悔した。
「はは。お前は、軍師で、しかも史家なのだろう? 人の発言をすべて丸呑みにしてどうする。『史』に偽りの発言も繋ぐ気か。人の話など、真実は半分くらいだと思って聞いておけ。発言に対する、余計な憶測もいけない。
ま、左目と性器を差し出したのは事実だ。一躍、『商王お気に入りの臣』だ」
「弓臤さまは以前、『史』と交換にして左目を差し出したとおっしゃっていました。ですから、今のお話の半分は偽り、ということにします。
弓臤さまの行動は、鬼公のため。ひいては、鬼方を安らかな暮らしを守るために行動していたということでしょうか」
弓臤は頷いた。
「鬼方は武具の技術力で劣る。腕も弱い。頭も悪い。だから土方の力を使った。周辺の諍いにもできるだけ芽を残した。お前らがことごとく潰したが……まあ、よい。それは一部で負けただけだ。すべてはこの戦のために」
「貴方の裏切りを、商王は気づいていたのではないでしょうか」
「そうかもな。気づいているからこそ、泳がされていたのかもしれん。王の目的は、華々しい戦争で命を犠牲として捧げることだ。人が死ねば、別に鬼方でも土方でも誰でもよいのだ。
それに、敵の諜者は味方に付けることが最良と、傅説先生から教わったな? 商王も、彼の弟子だ」
弓臤は歩みを止めて、くるりとサクに向き合った。
「さて。妹弟子よ。賢いお前なら、わかるな。次の俺の手を」
サクは答えた。
「商王に和議を持ちかける。なるべく鬼方の傷が少ないように。条件の良いように」
「ご名答。その目的を果たすために、お前がここにいる。商王を動かすには本当は婦好が適任だったが……なにせ強すぎる。捕縛はできぬだろう。一方、お前は弱い。加えて、婦好を動かす駒だ」
「お前には、婦好の軍師として……寵姫として、商の秘密を知る者として、鬼公に一度会ってもらう。覚悟を決めろ」
◇
弓臤の話を聞いてから、頭が混乱して落ち着かない。
まるで、天と地がひっくり返るようである。
考えさせてほしいと頼んでから、弓臤の部屋で過ごす日が一日一日と経てしまった。
「おい。この部屋から外へ出るなよ。どうやら陣中でおまえの容姿が噂になっているようだ。以前のお前ならともかく、いまのお前は兵には刺激が強すぎる。酷い目に遭いたくなくば、俺の側を離れるな」
「心配ありません。行くあてもありませんから」
「考え込むのも良いが、一日を過ごす間に、まだ戦は続いてゆく。お前さえ決断すれば、この戦いを止められるかもしれん」
「お前の死んだ仲間の顔を思い出せ。いまなら、死の連鎖を、天への贄を止められるかもしれないのだ」
「わかっております。しかし、それにはわたしが命をかける必要があります。もしわたしが和議を持ちかけるとしたら、捕縛された者が寝返り、使者として赴くことになります。婦好さまを危険に晒します。安陽におります、わたしの父も無事では済まないでしょう」
「まあ、婦好は大丈夫だろう。姉という強力な後ろ盾がある。義父は、……危ういだろうな。親子二つの命に対して、千。あるいは、万。命の価値が異なることを喜べ」
「父の命を差し出すなど、やはり、わたしにはできません」
「はあ、失望したよ。愚か者め。お前の主人も友も今日の戦いで死すかもしれないというのに。決断と行動で救えるのだ」
弓臤は拳を高く上げる。
「婦好軍でまだ生きているのは誰だったか」
「婦好」
「レイ」
「リツ……は死したか。では、シュウ、だ」
指を一つ、二つ、三つと立ててゆき、最後に五指を開く。
「それと、お前を捕らえたときの部下。俺の管理下だと言ったな。これは言いたくなかったが、もう正直、庇いきれん。
お前が断れば兵士の慰みものにする。良いな?」
彼の脅しに、サクは怒りに満ちた。
歯を食いしばって彼を睨む。
──悔しい。泣きたい。所詮、わたしは捕虜なのだ。
「わかりました。鬼公に……。あなたにとっての婦好さまに、お会いしましょう」




