覆地翻天(14)
「弓臤さま……。どうして……どうして裏切ったのですか」
サクは震える声で問う。
仮面の集団が弓臤の指揮下であれば、リツを殺したのは彼の部下によるものだ。
「どうもこうもない。俺ははじめから鬼方の人間だった。目的を果たすために動いてきた。ただそれだけだ」
「弓臤さまの、目的とは?」
「教える理由もない。自分で考えろ」
あなたはわたしの義理の兄ではなかったのですか、と問い詰めようとして、サクは止めた。
弓臤とは最初から今までずっと、赤の他人。
家族ごっこなどは、はじめから偽りであった。
この男が文字を獲得するために利用されていただけだ。
──まずは、落ち着こう。
この男に、聞けることを聞いていくのだ。
サクは一度、目を閉じた。
「わたしは、毒を飲んだはずです。あなたが生かしたのですか」
「毒? そうなのか。それは知らん。お前を見つけたとき、すでに失神していた。誰にもらったものだ。毒と言われたものは毒ではなかったのではないか。確実に死にたければ、これからは調合を覚えるんだな」
「わたしの……部下は」
「できる限り捕らえて俺の管理下だ。命を落としたものには申し訳ないが、戦時中だ。すまん。俺にできる限りのことで、お前に有利なことはやっている。怒って口をきかなくなってもたまらん」
「なぜ、」
「利用できると判断した。本来であれば、婦好を捕えたかったが、あいつは強すぎる。捕えようとすれば、必ず殺してしまうだろう。次点で、お前だ。お前の身柄を俺が引き受けた」
「わたしのような者になんの価値がありましょう」
「婦好との取引に使える。秘密を知る者として」
弓臤がサクに問いを返す。
「お前こそ、なぜ戦っていた。なんのために戦っていた?」
「侵略を目的とする外敵から、商の民を守るため」
「はっ。侵略の根本的な原因を作っているのは商だぞ。狩りと称して鬼方の民を攫う。商の民が良ければお前はそれでいいのか。それとも、お前が戦っているのは、実は婦好のためか」
サクは答えられなかった。
婦好のためといえば、否定はできない。
「なぜそこまで心酔できる? 女は剣戟を振るうためにできていない。現に、ずっとつらかっただろう? 力の差を考え、策を弄し、男に対抗する……そのような行いは天の定めた理に反するからだ」
「天の定めた理とは、何のことでしょう」
「朝がきて、夜がくることだ」
「からかわないでください」
「ははははは。お前は、なんのために戦っていたのか、正しく理解しているのか? 商という連合体は生贄を欲しているのだ。そのための戦争だ」
「鬼方の者を見てみよ。『異民族』などと呼ばれて、人間扱いされず、連行されて、隷属させられて、最後には儀式の生贄とされるのだ。ただ命を奪われる。先祖の霊を慰めるため。雨を降らせるため。儀礼の名目はなんだっていい」
弓臤の言説は続く。
「それだけではない。教えてやろう。この戦いの仕組みそのものが、商の天帝と先祖神への生贄なのだ。
お前の信奉する婦好ですら生贄さ」
サクは眉を顰める。
「なにを、おっしゃっているのですか。婦好軍の生贄の巫女はなくしました、この手で」
「はっ、まだわかっていないようだな。そんな小さな話ではない」
「戦をすれば、人の命が失われる。双方の、だ。神にとっては敵だろうが味方だろうが関係ない」
彼は感情を顕にするように、語気を強めた。
「商が奉戴する天というものは死者が多ければ多いほど嗤い転げて愉しむ悪趣味なヤツなんだよ!」
「戦いそのものが、生贄……?」
「そうさ! 今回の戦の前に、商王が祝詞を述べただろう。あれは始まりの儀式に過ぎない。戦いは全土を巻き込んだ天帝へ捧げる儀式の続きだ。お前らはずっと、最初から最後まで生贄の羊。生贄の巫女。生贄の命だ!」
──生贄の巫女。
覚えがないわけではない。
ぐるぐると、頭のなかでその言葉が往来した。
「自ら剣をとり、破滅に向かいながら殺戮を続ける婦好軍は、悪趣味な神からしたら、さぞかし可愛い存在だっただろう。生贄の巫女が、敵の生贄を殺すのだからな!」
この男は、最初から婦好軍は天に捧げる生贄になるために、敵の命を奪い、仲間の命を捨ててきたとでも言うのか。
「生贄、生贄、生贄……天はそんなに命を欲しがるものでしょうか」と、サクは首を振る。
弓臤は答えた。
「少なくとも、商王は代々その考えを引き継いでいる。死後の世界にも働き手が必要だ。先祖神のために、人を殺す。お前も史を学んでいるなら、わかるであろう?」
「それに、天を理由として人間の営みに己の命を賭けて愉しんでいるのは俺たちだ。
現にお前も楽しんでいただろう? 人の命を多く奪うことを」
「そんなことは……」
「否定できるか? 呂鯤との戦。呂鯤だけを征すれば良いものを。なぜお前は多くの兵を殺した?」
反論ができなかった。
確かに、己はより多くの敵兵の命を奪おうという戦略を執った。
サクは項垂れた。
「身に覚えがあろう。
商にとっては、人命はすべて生贄。敵も味方もない。婦好はわかって戦っていた。すべては姉のために」
「わかるか。婦好にとっては、戦で人が死ねば、姉の功績となるのだ。死者は多い方がいい。神に捧げる供物は数が多ければ多いほどよい。そして、供物の中身は敵味方関係がない。敵と味方の違いはこちらの想定で動く駒かどうかだ」
「現に、姉の婦好の地位はどうだ。これほどになく高まっている。神に捧げる供物の数が多いからだ」
「お前に必要なのは、商の本当の姿を、正しく知ることだ」
「わたしは」
『どうすれば』と言いかけて、やめた。
それは義兄に問うものではない。
──己は最初からこの男に利用されていたのだ。
違う。
己もまたこの諜報活動を行う便利な人間を利用していた。
疑似家族として共依存の関係であったのだから。
それにもし、今この男が居なければ、己は考えうる酷い処遇を受けていただろう。
その点、感謝しなければならないかもしれない。
問うのは、男が知る事実だけだ。
それを聞いて、己がどうするか、だ。
否定したければ、行動すればいい。
しかし悔しいことに、この裏切り者の考え方がすべて間違いだとは思えない。
──考えろ。最善の行動を。
この時代に女として生を受けて、次に為すべきことを選べるだけ、恵まれているといえるのだから。
「義妹よ。あとはお前に住まう神の望むままに」
「わたしの知る弓臤さまは、商王お気に入りの諜報家・軍事家であり、安陽の史家集団の門下です。わたしの父と義理の親子関係となり、文字を学びました。あなたの本当の姿を、お聞かせいただけませんか」
「教えてやろう。俺は鬼公に忠誠を誓う者。お前にとっての婦好が、俺にとっての鬼公だ」




