リツ(18)
※サク視点
「リツさま、もう少しでキシンのもとへたどり着きます!」
サクはリツに報告する。
その呼びかけに、リツからの反応はなかった。
「リツさま……?」
サクの隣にいるリツは、いつものように銅戈の柄を掴み、すらりと涼しげに立っている。
顔は毛皮に隠れて見えない。
サクはその顔を覗きこんだ。
「リツさま、お眠りになられているのですか……?」
サクが右手でリツの肩に触れる。
リツの肉体が、ゆっくりと弧を描き、戦車の籠の中で崩れ落ちた。
「リツさま!!!」
サクはリツの身体を確認をした。
紅の衣でわからなかったが、大量の出血の跡がある。
返り血ではない。リツのものだ。
「……っ!!」
胸から首にかけての深い傷。
喉元の赤い肉が見えている。
リツはすでに息をしていない。
「そんな……リツさま……! リツさま!!」
サクは自らの服を破いて止血する。
とにかく、傷口を塞ぐ。
回復のためには動かさぬほうが良いとシュウは言っていた。
応急処置を終えてから,リツの頬を包むように触れた。
瞼も口もぴくりともしない。
ただ黒い前髪が風に揺れるだけである。
サクは戦車の中でリツの身体を見守ることしかできなかった。
もどかしさと後悔と悲しみの感情が押し寄せる。
──どうしてこのようなことが起きてしまったのか。
己の行動を、判断を責め続けた。
「リツさま。婦好さま、ごめんなさい……!」
サクは、近くにいた婦好軍の兵に告げる。
「みなさんはキシンのもとへ! リツさまが怪我を負いました。わたしは……わたしの戦車だけが、治療のため急ぎシュウのもとへ、向かいます!」
生きた心地がしなかった。
サクは戦車のなかで祈った。
己にできることなど、ほとんどない。
血を止める。戦車に打ち付けぬよう、身体を守る。
その程度だ。
「一刻もはやく、シュウのもとへ!」
──シュウの治療を受ければ治るかもしれない。
天に祈った。
奇跡はきっと起きる。
がたがた、と戦車が軋む音が響く。
どくどくと頭に響くような己の鼓動とは裏腹に、友は硬く冷たい静寂のなかにいる。
──望みはないのか。
涙がとめどなく流れ落ち、動かない白肌に落ちる。
夢であってほしい。
目を覚ましたら、すべてが夢であればいい。
井亥将軍の裏切りに、キシンの隊は襲われた。
キシンの無事もまだわからない。
願う。
──もう、これ以上、失いたくない。
リツの、西の行路で戦うという判断が、どのように戦に反映されるかはまだわからない。
「リツさま……。あなたのおかげで、婦好さまも、キシンも、きっと無事です。わたしも……」
喉の奥が痛い。呼吸ができない。
涙を零しすぎたせいだ。
「でも、あなたが亡くなったのは……わたしの責任です。わたしが、敵の策を上回れば。軍を三つになど分けなければ。井亥将軍の裏切りに気づけば。占いの結果をもう少し深く考えていたら」
サクは己を呪った。
己にできることはあるのか。
サクはふと、魂魄のことを想った。
魂は精神、魄は肉体のことである。
魄──肉体は損なわれてしまった。
魂はまだ、抜けていないかもしれない。
翡翠は魄に魂を封じ込め、呼び戻すことがあるという。
はっとして、サクは玉製の腕輪を外した。
婦好から以前貰ったものである。
これが婦好のもとに届くときは、サクが死ぬときである約束の証だ。
リツの魂を留めるのであれば、婦好に縁あるものが最適だと直感した。
サクは、リツの胸に腕輪を置いた。
リツの両手を翡翠に重ねる。
招魂の祝詞を唱えた。
巫祝の父から伝わる秘儀である。
いつの間にか、御者も矢を受けて殺されていた。
山賊だ。
──こんなときに。
否。
こんなときだからこそ、だ。
山賊は逃げ惑う兵を襲う。
死者から武器や金品、戦車を強奪する。
戦で落とされたものを拾って生活をする者たちもいる。
鬼方の戦車も、もとは商で作られて奪われたものが多い。
そのような循環でこの戦いは回っている。
サクは初めて戦車の手綱を握った。
──いつだって近くで見てきた。できないなど言っていられない。やるのだ。あの人のもとへ、連れて帰る。
単騎。馬を走らせる。
「賊よ! わたしがいま唱えるのは呪詛です。邪魔をすれば、天の怒りを買うでしょう!」
サクは祝詞を唱え続けた。
たとえ命を呼び戻すための詞だとしても、学のない山賊には呪いに聞こえるだろう。
うら若き乙女が、不思議な声を発しながら走る戦車は、この世のものではないように見えたようだ。
賊は不気味がって誰も手を出さない。
「お願い。わたしを、婦好軍の本陣まで運んで……!」
二つの躯を乗せた戦車を、サクは夢中で駆けさせた。
馬を御しながら、涙を流しながら、サクは唄う。
まるで子守歌のように。
──天よ。お願いします。どうか、リツさまの魂を留めてください。婦好さまのもとへ、帰したいのです。生きて。生きて、還したいのです。
サクの願いをあざ笑うかのように、リツの肌に温かさが戻ることはなかった。




