【リツ】将の器(20)
※リツ視点
「リツさま。井亥将軍が裏切りました。この長雨に、病に罹る方も多くいます。いますぐここから撤退して、まずはキシンを助け、婦好さまと合流しましょう。それがこの窮地を生き抜く、最善の方法です!」
雨が降りしきる。
目の前でそのように言う軍師は、いまにも泣きそうであった。
「その情報は信じられるのか」
「二つの経路から入手しました」
──嘘か、真か。
一つの判断が生死をわける状況であることを、リツは理解した。
「ここを捨てるとすると、婦好さまはどのくらいの危機に陥るのか」
「今、婦好さまは鬼方と土方の連合軍と相対してあります。先日、婦好さまが呂鯤を討ち取ったとの報を聞いて以来、特に戦況の報告はありません。伝令の到着があるまでは、楽観は禁物でしょう」
「わからない、ということか」
「婦好さま、ギョウアンさま、雀将軍は、婦好軍としても最高の武力を有する方々です。一方、我らは敵と裏切り者に挟撃されていることになります」
「我々は、弱い、か」
サクが押し黙った。
──婦好さまならこの窮地にどうするか。
心に婦好さまを宿す。
それが、影たる己の役割だ、とリツは自負する。
『笑え』
『窮地にこそ高らかに笑い、緊張をほぐし、高揚感とともに戦え』
内なる婦好さまが、そのように回答する。
この重たい気の中で、リツは笑おうと呼吸しようとした。
──できない。
リツは落胆した。
人には生まれながらにして性質に違いがある。
危機に瀕しても華やかに朗らかにいられること、それが、かの人と己の差である。
──できることを。わたしなりの、婦好さまを演じようではないか。隣から励ますことが、いつだってわたしの立ち位置ではなかったのか。
リツはそう思い、サクの肩をぽん、とたたいた。
「我々の役目は、この行路を守ること。逃げることは考えてはいない! さあ、サク。逃げ出さない作戦を全部吐き出すがよい!」
「逃げ出さない作戦でしょうか」
「なんだ、できないのか」とリツは煽った。
サクはこくりと頷く。
「逃げるのではありません。キシンを助けるのです。そのために、地を捨てるか、兵を捨てるか、選択しなければならないのです。捨てるべきは地であると申し上げたいのです」
「婦好さまの危険を増やしても、か?」
「……信じましょう。婦好さまなら、我々が全滅するよりは、婦好さまの力に頼ることを善しとするでしょう。どうか、撤退の決断を!」
後輩が青い顔をして声を荒げる。
「撤退はしない」
「危険です。我々では……。あ……」
『我々では力は及びません。あなたは、婦好さまではないのです』
サクがそう言いかけて、飲み込んだことにリツは気づいた。
──酷いな。わかってるよ。そんなことはわかってる。
リツは小さく嘆いてみせた。
「わたしでは、婦好さまにはなれない」
二人の間に、ざああ、と、雨音のみが通る。
リツは後輩の肩に手を置いた。
彼女の髪も服も。
長く続く雨で、すべて濡れている。
「わたしは婦好さまではない。だからこそ、できることもある」
リツは紅の衣を脱ぎ、サクに手渡す。
「サク、お前を逃がすために、わたしは残る。婦好さまにこの衣を渡してくれ。この衣が敵の手に渡れば、必ず敵は婦好さまを死を喧伝して利用する。命ずる。援軍を一刻も早く。サク自ら伝えてくれ」
「いいえ。伝令は既にわたしの部下に頼みました。リツさまが残るのであれば、わたしもここに残ります!」
絞り出すように発言するサクを、リツは突き放した。
「直接言わねばわからぬか! お前は口を開けば逃げることばかり考えて、足手まといだ!」
──笑えない。叱ることしかできない。
「なにが軍師だ! 剣も振るえぬ、役立たずめ! ここを去れと言っている!」
──止められない。重責が、器から、こぼれてあふれる。
「逃げる以外の進言なら許す。それ以外に、お前に価値はない!」
サクは泣きそうな顔を、ぐっと堪えた。
「わかりました。申し上げます」
軍師は雨か涙かわからない、ぐちゃぐちゃの顔で献策する。
「キシンを助ける兵を分けます。五百。行路を奪取するために敵が襲ってくるでしょう。逃げたと思い込ませて、兵を伏し、敵が来たところで戦います!」
こんな顔をさせてしまっては、婦好さまに叱られてしまうなどと、リツは思う。
「いいだろう」
「紅の衣は、リツさまがお召ください。おっしゃるとおり、もし、敵の手に渡れば敵方の作戦に使われることになるでしょう。しかし、きっとリツさまを守ってくれるものでもあります」
「もしわたしが死んだら、東へ走れ。婦好さまのもとへ」
「はい。リツさまとともに、帰ります」
サクの整った横顔を見る。
空を映せば青く光るような黒髪。
鏡のように艶のある瞳。
出会った頃は十四だった。
今、十七の乙女だ。心身ともに美しく成長した。
羨ましいほどだ。
一方で己は成長したのだろうか、とリツは自問する。
今日まで毎日7時台に更新させていただいておりましたが、
本日21時台にもう1話を更新し、
明日以降は21時台の更新とさせていただきます。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




