【レイ・ギョク】ギョクの覚悟(23)
※レイ視点
レイは窮地に陥った。
矢を全身に受けた馬を、レイは盾にする。
馬を絶命させて腹を割いて、その間に身を隠した。
敵の矢の雨は必ず尽きる。
「動けないものは馬を盾にして待機! 後続の隊は旋回して回避して! 矢が尽きたら合流します!」
戦車五十乗の損失。
被害は大きいが、捨てる。
兵の命には代えられない。
レイは、馬の内臓の一部を持ち上げた。
皮の外に矢が刺さるのを感じながら、ときを待つ。
レイの隣で、戦車の御者が涙を流している。
御者にとって、馬は友だ。
数多の戦場をともに駆けた。
「この子たちのこと、残念ね。それにしても、なぜ、この子たちは進まなかったのかしら」
「朝から様子がおかしいと思っていました。わたしが、きちんと進言すればよかったのです」
「なにを」
「申し上げにくいのですが、レイさま……その、婦好さまに似せた、紅の衣」
「飾りに熊の毛を使っていらっしゃいます。今回、新調したとのこと。熊の匂いがまだ残っているのではないでしょうか。馬は、熊の匂いを怖がる生き物です」
レイは、はっとして、肩にかけた衣の匂いを咄嗟に嗅いだ。
戦場の、馬の内蔵の、ツンとした臭気が強い。
服のもともとの毛皮の匂いなど、わかるはずもない。
「まったくわからないわ。でも、御者のあなたが言うなら、そうかもしれない。この子たちは嫌いな匂いをずっと我慢していて、矢を受けて混乱したのかもしれないのね」
戦場での勝敗は複合的な要素を持つ。
「サクの考えは、とても得難いものだわ。でも、戦場は盤上の駒じゃない。 戦場の馬と同じ。生き物だから、思うようにはいかない。だからわたしは誰の責任にもしたくない」
予備の短刀で熊の毛皮を切り落として捨てる。
「わたしに、この衣はやはり重かった。……でも、今やるべきことをやりましょう。大丈夫。軽いほうがわたしには似合っているのだから!」
矢の雨が降り止んだ。
すかさず身をこなして、無傷の戦車の迎えを待ち、乗りこむ。
戦車は三人乗りである。左。中央。右。
後方に一人。走りながら乗る。
「ごめんね! わたしたちも乗せて! でも、女のわたしたちなら、問題ない! ギョクと合流しましょう!」
張達の軍に対して、レイとギョクの軍に迫る。
「攻め続けましょう! 我々は婦好さまへ勝利をもたらすのです!」
レイは風のように戦う。
風は留まることはあっても、止むことはない。
ギョクの隊と、レイの隊が鬼方軍を挟む。
将軍子画の軍も遅れて到着した。
ついに将軍張達にまで婦好軍の刃が達した。
レイが粘りを見せた結果だ。
「張達! 覚悟!」
ギョクが叫ぶ。
鬼方の将軍張達は、ギョクの因縁の相手である。
張達は冷ややかに挑発する。
「はっはっは。なんと。すでに、血塗れではないか。臭く、汚い女どもめ」
ギョクは地の底から穿つような声を発する。
「先の戦でお前に殺された友の恨み、忘れぬぞ!」
張達は清涼な音で答えを返した。
「んん? なにを、いまさら。お前たちこそ我が同胞を多く殺めているくせに。女々しいことを申すではない!」
「なにを」
ギリギリと憤怒するギョクに、彼はさらに高らかに笑う。
「ははっ、そうだ。女々しくて当然だ。貴様らはおんななのだから。弱き者にもう言葉は要らぬ。はっはっはっ」
「死ね! 張達!」
ギョクは一度屈伸し、ためこんだ力を放つように、敵に向かって跳躍した。
「ギョク!」
──まずい。
レイは彼女を止めたかった。
いたずらに斬りかかっては、圧倒的に不利だ。
レイの声も空しく、張達の反撃を受けたギョクの左手が宙に飛ぶ。
ギョクの左手は血を噴き上げて、ぼとり、と地に落ちた。
「はっ。口ほどにもない」
勝敗は一瞬のことである。
ギョクは張達に比べて力が弱い。
一方で、柔軟性と早さはギョクが勝る。
左手を失っても、ギョクは手足を使い張達を捕らえた。
張達にしがみついて離れない。
「これで終わりと思ったか! お前はわたしとともに死ぬのだ!」
「くそっ、気色の悪いおんなめ!」
張達がギョクの銅戈を掴む。
ギョクの戈の、柄と銅を結ぶ縄がゆるんだ。
──こんな時に……!
近距離では力の差が不利なうえに、ギョクは武器を失うという運に見放された。
──このままだと、負ける。
レイは戦車で駆けた。
先ほど熊毛を切り落とした短刀を張達に投げる。
レイの短刀は張達の防具に当たった。
「ギョク! 使って!」
ギョクは両足で張達にしがみつきながら、体をくねらせて、短刀を右手で掴んだ。
血だらけの口をゴロゴロと鳴らしながら伝える。
「レイ! 助けはいらないと思っていたが、打ち損じては恥。感謝する!」
ギョクは渾身の力で、張達の首元を短刀で突く。
張達もまた、しがみついたギョクの胴体を剣で切断しようとした。
「だ、あああああ!」
「ぐ、ぐぎぎぎぎ」
剣はぎりぎりと肉を断ち、ぶしゅ、と赤い塊を吐き出す。
レイは唇を噛んで、天を仰いだ。
張達の助けに入るため、鬼方の兵士が集う。
「じゃまを、するなああああああ!!!」
レイは叫びながら、足元の銅戈を振るった。
レイが握るのは、もはや誰の、どこの武器かわからない。
一。二。三。四。五。六。七。八。
鍾の音を奏でるように、レイはただただ目の前の鬼方の兵の命を奪う。
頭から馬の血を浴び、紅の衣を肩にかけたレイの姿はまるで真紅の鬼神のようであった。
レイの背後で、どう、と、二度、地は響いた。
レイは振り返った。
血溜まりが空の青を映す。
レイは張逹の死を確認した。
ギョクは見なくても絶命しているとわかる。
この戦では、天に告げなければならない。
「ギョクが……」
──友の名誉を。
レイは血を吸った紅の衣を空に靡かせて、低い声で叫んだ。
「婦好軍のギョクが、張達を打ち取った!」
──まるで、信奉する英雄のように。




