ニ爻、調練、対沚馘軍
第一戦は婦好軍が勝利をおさめた。
「ほぁっはっは!婦好さまはやはりお強い、お強い」
弓臤がなにも言わずに沚馘の旗を拾い、砂埃を払った。
「では、沚馘どの、二戦目といきましょうか」
婦好が宣言した。
「ほぁっはっは! 次は負けませんぞ」
沚馘の言葉につづいて、弓臤が提案した。
「婦好よ、次は我々沚馘軍が南側から攻める」
「弓臤よ、良いだろう」
婦好は快諾した。
***
沚馘と弓臤が乗った馬車が、婦好とサクの馬車と交差した。
すれちがいざまに、弓臤は、婦好の馬車を観察した。
婦好軍は、いま、王の直属下にある。
馬車は沚馘のものに比べると、飾りは簡素であるが、性能ははるかに良いものであるのがわかる。
弓臤の眼から、婦好の旗が小さくなるのが見えた。
弓臤は、目が悪い。
ぼんやりと、しかし、弓臤は紅の婦好旗をとらえていた。
「ほぁっはっは、弓臤。負けてしまったなあ」
沚馘が、いつもの調子で高笑いした。
弓臤の隣で笑う老獪な人物は、沚馘の邑をたばねる首領にして、百戦錬磨の老将である。
柔らかな表情から、腹の底を読むことは難しい、と弓臤はつねづね感じていた。
「沚馘どの。心配ありません。力は、我が沚馘軍のほうが、強い。一度でも勝たせれば、相手は油断します。いくら指揮官が油断しまいと思っても、末端の兵は慢心するものです」
「ほぁっはあ、たしかに、我が軍は一度負けたとあって、殺気立っておるわい」
「婦好軍は、婦好と、数名の隊長の力に頼るところが大きい。これを抑えてしまえば、いとも簡単に勝つことができましょう」
「弓臤の言うとおりじゃ。さてさて、お嬢ちゃんたちの気の緩みが、どこまで影響するか。必見、必見、ほぁっはっは!」
沚馘の笑い声の横で、弓臤は、光を失った左瞼を掻いた。
***
第二戦。
北側に婦好軍、南側に沚馘軍が陣を組んだ。
沚馘の陣形は、横一列に並んでいた。
第一戦での錐形の布陣とは違い、サクには、どこか隙があるようにみえた。
一方で、なにかを誘っているようだった。サクは薄暗い気味の悪さを感じた。
婦好軍は、さきほどと同じ陣形である。
「陣形を、変えないのですか」とサクが問うと、婦好は微笑んで、
「サク、挑むか」と問い返した。
サクは、拳を握りしめて、
「はい」と答えた。
──弓臤の策が読めない。それなら、攻めに強く、守りに堅い陣を組めば、攻撃をしのげるかもしれない。
サクは婦好の助けをかりて、攻守に優れているといわれる陣形を敷いた。
左右の先鋒に、軍のなかでも強い第一隊と第四隊を置く。そして中央に向かって斜めに陣を展開し、婦好含む第七隊を、奥に配置した。
第二の鼓が空に響いた。
婦好軍の攻撃よりもはやく、沚馘軍が婦好軍の先鋒を包囲するように襲った。
婦好軍もまた、勢いをもって攻めようとした。しかし、婦好軍に第一戦での鋭さはなかった。
あっという間に、第一隊と第四隊が包囲されてしまった。うしろにいた隊が相手の包囲を崩そうと、応戦する。第一隊隊長のレイが、鬼神ような働きをみせるものの、圧倒的な兵数と実力の差に、苦戦を強いられた。
一度は勝ったという気のゆるみ、そして、サクが弓臤の動きを読めなかったことが、沚馘軍の猛攻を許した。
つぎつぎと、味方の兵士は敗退した。
婦好とサクの車馬も、東の第一隊を援護した。
第四隊を含む西側の味方は、すでに壊滅状態だ。
婦好と、第一隊隊長であるレイの奮闘が始まった。ふたりの周りに沚馘の兵が集う。ふたりは、息のあった技で目の前の兵を退場させていった。
「ふふふ、楽しいな! これほどの状況はひさしぶりだ! こい! 倒れるまで相手をしようぞ!」
窮地にもかかわらず、婦好は上機嫌だ。
「楽しいなどと、またご冗談を」
第一隊隊長のレイが婦好の狂喜に、呆れていた。
まるで、婦好とレイ、どちらが多くの兵を退場させられるかを競っているようだった。
サクは思った。ふたりなら、もしかしたら、奇跡的な勝利を掴むかもしれない。
──しかし。
サクは唇を噛んだ。
──個のちからで勝ったとしても、意味はない。この状況を招いたのは、わたしだ。全のちからで勝たなければならない。そして、できることなら、おのれの策で。
いつのまにか沚馘と弓臤の馬車が、サク達の近くまできていた。
弓臤が、サクに冷たい笑みを放った。
「娘。おまえに良いことを、教えてやろう。用兵は、猛獣を飼いならすのに等しい。よくその性質を知らねば、勝ち目は、ない」
戦略家としては、完全なる敗北である。これ以上、婦好とレイの体力をいたずらに削ぐことは得策ではない。
サクは、馬車の後ろにあった、紅色の旗を握った。
旗はサクが全身に寄せて、やっと持つことのできる重さだ。
馬車を降りて、サクはゆっくりと大地を踏みしめた。サクの行動に、交戦あるいは、退場していたすべての者の視線が集まる。
サクは、沚馘と弓臤の前に婦好旗を差し出した。
「次は、勝ちます」
サクは、いつも婦好が声をあげているときのように、身体の芯から音を響かせた。全軍のときが、止まったようであった。沚馘の笑い皺が、深く濃くなった。
「ほぁっはっは、では、遠慮なく」
沚馘はまるで、子から物を贈られた時のように、身をかがめて、サクから旗を受け取った。
──悔しい。己の浅慮のために、負けた。しかし。
サクは目を閉じて誓った。
──この敗北を糧としよう。
婦好は、まだ戦い足りない様子で、汗をぬぐった。
「サクよ、良い判断だ。将たるもの、引き際を見極めることも、肝要だ」
婦好の言葉は、やさしさに満ちていた。もし、これが実戦だったら。サクははっきりと、自覚した。軍を動かすということ、その責は兵士全員の命を預かることに等しい。
婦好がサクの心境をいたわるかのように、サクの細く弱い肩を引き寄せた。
婦好の手は、サクの肩が炎に抱かれたかと思うほど、熱を帯びていた。
「婦好軍よ! よく戦った! 次は勝利を手にしようぞ!」
婦好の、清く美しいまでの鼓舞が、サクの心胆に響いた。




