【婦好】鳥尊の香酒
※婦好視点
戦車百乗で呂鯤の軍を取り囲む。
「ぐあっ! なんだ?」
これはサクの考えた戦法である。
実現可能かはわからぬ、と言っていたものだ。
戦車で呂鯤のまわりを三重に大きく円を描く。
戦車で平原に城のような包囲網を敷くのだ。
外側の者は外に対して、
内側の者は内に対して戈を用いて防御する。
中の者のうち御者以外は、歩兵として内にいる敵を掃討する。
敵陣に風穴を空ける強引な戦法である。
味方に損害はあるが、いたずらに戦を長引かせるよりは良い。
「婦好か! 来たなぁ! お前と戦うのは今度こそ最後だ!」
「それは良い! もうお前との手合わせは飽きていたところだ! 我が軍の最上級の扱いをしてやろう。光栄に思うがいい!」
呂鯤とその側近のみを地図上から分断する。
危険を伴い、あまり長い時間はかけられない。
まず狙うは、彼の周りにいる人間の盾だ。
「がはははは! それにしても、俺らを囲んで、なんだあ? その作戦は。祭りでも開くのか。弱く見えるぞ。まるで児戯のようだなあ、おい!」
婦好は最も内側の戦車から鉞を振るう。
呂鯤が打ち掛かってくるまでは、呂鯤の味方から命を奪っていく。
呂鯤は唸りながら、斧を取り、味方を助けるために振り回す。
「どうした、呂鯤。昨日の酒でも残っているのか」
「おい!! 俺の部下ばかり狙いやがって!!! 卑怯だぞ、婦好!」
「お前が言うか。ほら、どうした。味方を助けねば、すぐにお前だけになるぞ」
「がはははは! 恐るるに足らず! この作戦、見破ったり! 弱そうな奴を殺せば、こんな包囲、突破できるだろうが!!!」
身体の小さな婦好隊の兵士が呂鯤に襲われる。
彼女は的の小ささを活かして攻撃を回避した。
呂鯤は幾千の戦地を乗り越えた婦好隊の実力をまだ侮っている。
「呂鯤よ。敵を侮った時点で、戦は敗北するものだ」
「クソッ! すばしっこい奴らめ!!」
「宣言しよう。お前の命は太陽が昇りきる前に失われる。昨夜はそうなるとは考えもしなかっただろう。お前が殺した人間もみな、同じだった。なに。安心するとよい。お前の番が来たというだけだ」
呂鯤が標的を婦好に変える。
「うるせえ!!! ごちゃごちゃと、ふざけやがって!!!」
呂鯤の斧と婦好の鉞がぶつかり合う。
相変わらず呂鯤の攻撃は一撃が重い。
しかし既に動きは見切っている。
「呂鯤よ。死ぬ前に聞いてやろう。隻腕になってまで、なぜしぶとく戦いに繰り出している。戦いの果てに、お前の望むものはなんだ」
「がはははは! つまらぬことを聞く! 名誉! 酒! そして、女だ! この世にそれ以外の快楽の何がある!」
「心底、つまらぬ。聞いたわたしが愚かであった」
一撃、一撃と重さを伴わねばこの男を誅することはできない。
速さは勝利への道筋だ。
「その腐った性根を断ち切ることこそ、天より与えられた我が役目。さあ、終わりにしよう」
呂鯤の部下が数騎となった。
肉の盾は失われた。
作戦の潮時だ。
呂鯤の鎧をめがけて鉞を投げる。
婦好の鉞は呂鯤の左の防具に突き刺さった。
鉞は敵の肉を僅かに断ったものの、彼の手に収まった。
「おう、おう、おう。がははははは! ついに婦好の武器を奪ったぞ! 武器を持たぬお前など、ただの女も同然!!!」
彼は醜悪なる顔を歪ませて歓喜する。
──こちらの意図も知らず、どこまでも愚かな男であろうか。
左足を後ろに引き、新しい鉞の柄の端を踏む。
右手に吸い付いた柄を掴んだ。
呂鯤の握る鉞は、好邑の銅で作られたもの。
婦好の握る鉞は、倉邑の銅より贈られたもの。
銅の質も技術も、倉邑が勝る。
さらに呂鯤の手の内の武器は、彼の部下の血を吸っている。
刃は毀れ、脂を吸い、切れ味が悪い。
彼の部下が生贄。
生贄を斬った武器は使い物にならない。
「喜んでくれたようで嬉しいぞ、呂鯤よ。我が鉞を使い心地はどうか」
婦好は二度と訪れないかもしれない機会を逃さなかった。
ひゅ、と古き鉞めがけて渾身の一打を加える。
武器の脆き点を知らなければ、己の身も守れない。
弱点は把握して当然だ。
道具は身体の一部である。
「己の武器を捨てるとは、愚か者め」
故郷の鉞ごと砕き、一気に呂鯤の首に目がけて振り下ろす。
新しい鉞は気高く共鳴して婦好の期待に応える。
「命を賭しているときに、慣れぬ武器を扱うものではない」
呂鯤の首から、ぶしゅ、ぶしゅと汚い音を立てて血が噴き出した。
右手に生ぬるい液体が付着する。
──不快。
呂鯤は刮目して唾を飛ばす。
彼はこれ以上は斬られまいと右手で渾身の力を込めて婦好の腕を掴む。
「くそおおおおおお!!! ふこおおおおおお!!! お前の細腕などへし折ってやるわあああッ!!!」
めき、めきと、婦好の銅の防具がしなる。
首の皮一枚では殺せない。
骨を断じなければ、この男の命は奪えない。
婦好は鉞に体重を乗せて首元を深く抉る。
さらに血が噴き出して頬にかかり、婦好の唇に触れた。
「だははは! 我が血を受けたな! 我が呪いを受けるがいい!!!」
彼に一刻も早く死を賜ることは慈悲である。
「呂鯤。貴様の呪いの血も商の神々には美酒となろう。貴様の血には数多の死者が舞い喜ぶことであろう。謹んで献上する」
「ぐがあああああッ」
「死ぬのだ、呂鯤」
汚い叫び声が消えたと同時に、ふ、と力が抜けきる。
首は血とともに、空に舞い上がり、ぼとり、と落ちた。
熊のような巨躯が轟音を立てて斃れる。
顔だけとなった呂鯤が、かっと目を見開き、婦好を睨む。
まるで土から生えたような首は口を上下させて、唸った。
『ふ、こ、おおおおおお!!! いま!!! このときより!!! 我が呪を!!! 受けるがよい!!!』
『これより先!!! てめえにはありとあらゆる禍が待ち受けるだろう!!! 過去にお前らから受けた呪もだ!!! お前の身に呪として還る!!! 俺が殺した分に加えてだ!!!』
『どうだ!!! お前にふさわしい祝福だ!!! 俺とお前の分の呪すべてを背負うのだ!!! 必ずだぞ、必ず呪う!!! 必ず!!! ……!!!』
黒々とした肌の髭面が歪み、舌を出して力なく大地に溶ける。
婦好は血と唾と脂と汗を拭った。
「呂鯤。商の兵士を最も殺めた土方の将よ。お前の首は、必ず商の社稷に献上しよう」
浄化のために、酒を持たせた。
酒を撒いて清める。
「名誉と女と、酒が好きだと言っていたな。喜べ、呂鯤。商一番の酒をお前に飲ませよう」
どばどば、と敵将の生首に酒を注ぐ。
黒黍で醸造し、香草を漬け込んだ香酒だ。
「商の神々よ。数多の命を奪いし戦士の魂をいま、ここに捧げよう!」




