神々の代理戦争(丙)
「婦好よ! ここで遭ったということは、お前が死ぬか、俺が死ぬかのどちらかだ! 今こそ決着をつけるぞ!」
呂鯤が大地を轟かせるような声を発した。
「呂鯤! 先の戦と同じくもう片方の腕も切り裂いてみせようぞ!」
婦好も全軍を鼓舞するように返答する。
「がはは! 婦好よ! 俺がお前の右腕を、首を、落としてやる!」
土方の軍は肌を露出して北方特有の毛皮を付けた鎧の集団である。
彼らが一歩、また一歩と大地を踏むたびに禍々しい気を放った。
彼らはその膂力に頼る戦法をとる。
戦術上は、先の戦から手の内がわかるだけ容易い。
恐るべきは、もし敵の背後に策士がいて、予期せぬ事態に陥ったときに対応することだ。
土方は戦車でまっすぐに突き進む。
まるで獣だ。
彼を恐れぬ商の兵が、勇んで呂鯤の軍に挑んだ。
無知は死を招く。
「がはははは! 良い度胸だ!」
懐に飛び込んだ獲物に、呂鯤が斧を振るった。
ばん、という破裂音のあとに、商の兵の血が、肉が地に落ちる。
──やはり、強い……!
商の兵の血の気が引き、足取りが重くなる。
サクは目を閉じ、沚馘の邑での戦いを想った。
以前と同じ。しかし、同一ではない。
「がははは! それにしても、弱くなったなあ! 商の兵どもはこんなに弱かったか!」
商の骸の臓物を引き摺り出しながら、呂鯤は天に向かって雄叫びを上げる。
「否、俺らが強くなったのだ! 積年の恨みによって!」
婦好が微笑んだ。
「この程度の力で強さを誇るとは、弱いものほどよく吠えるものよ!」
事実、呂鯤は強い。
もし婦好軍の隊長格だとしても、真正面から戦ったら、誰も勝てぬだろう。
だから、策が必要なのだ。
サクは作戦の合図の旗を掲げさせる。
おおよその作戦は以下である。
呂鯤の襲撃をまともに受けぬよう、ひたすら彼らを攪乱する。
その隙に他の隊が挟撃を開始し、彼を孤立させる。
中央に配置された第二隊が呂鯤の軍と対峙した。
リツが叫ぶ。
「みな、守りを固めよ! まともに攻撃を受けるな!」
第二隊は黄銅の盾を構えた。
この作戦において、リツの隊は体力との勝負である。
第二隊のリツは、隊列を八つに分け、自在に動かして土方の攻撃を避ける。
再戦に向けて、何度も訓練をしてきた動きである。
リツの隊の動きに、呂鯤は苛立った。
「クソ。おんなどもめ、ちょろちょろと……! おい、婦好よ! こちらへ来て、俺と戦え!」
呂鯤が耳を劈くような声を上げた。
「ははは! 呂鯤よ、死に急ぐことはない! しばし遊ぼうではないか!」
婦好は挑発した。ここまでは作戦のとおりである。
婦好軍の意図を読み取らぬ商の兵だけが彼に挑んでゆく。
呂鯤はそのすべてを屍に変えた。
「がはははは! 商の女が逃げるのならば、商の男を殺すまでよ!」
呂鯤は、彼を倒して名を挙げようとする商の兵に対して、必ず死をもたらした。
商に損害が広がる。
サクは早く呂鯤を倒してしまいたいという気持ちをぐっと堪えた。
時機を得たら勝つ。
力では押されてはいるが、水面下では首尾よく進行していると言って良い。
しかし、もし双方の力量を見誤っていたら……。
ふ、と、呂鯤と目が合った気がした。
畏れが喉の奥から迫り上がる。
不用意に近づけば、命はないだろう。
サクは手に汗を握っていた。
この瞬間にも、前線では命の駆け引きが繰り広げられている。
戦場は初めてではない。
初めてではないからこそ、過去の痛みと恐怖がよぎる。
気をしっかりと持たないと、足元から崩れ落ちそうな不安は尽きない。
サクは婦好の背中を見た。
紅の衣はいつだって勇気をくれる。
その色が死者の血が重なり合ったものであると知っていても。
──勝利を。この背中に。
サクはぎゅっと戦車の縁を握った。
呂鯤に苦しめられてはいるが、実は今、真に重要なのはこの場ではない。
表の戦略だけではなく、裏の戦略も操るときだ。
己の作戦を開放するときである。
サクは呟いた。
「第三隊、兵糧庫の守りを! 第一隊、敵の兵糧庫への襲撃を!」
呂鯤はまるで戦場に乱入した悪神のようである。
みなさんお願いします、と届かぬ声で願った。




