神々の代理戦争(乙)
勢いに乗った商の軍を、嘲笑うかのように敵がある場所へ誘おうとする。
勝ちに酔っているときが最も強く、危うい。
敵に誘導されていることをサクは察知した。
──この先にはなにがあるか。
ハツネと作成した頭中の地図を広げる。
沼地だ。
もし沼地で車輪に泥が付くと後々の戦況につながる。
敵の思考を読む。
敵の陣地ということは、敵の手中で戦うも同然である。
もしこのまま商の軍がこのまま進むとしたら。
左に深い川、右に険しい丘陵がある。
──死地だ。
敵は商の兵を罠に陥れるつもりだ。
「婦好さま。このまま進むと、沼地に足を踏み入れてしまいます。敵は我々を沼地に誘導するつもりです。深く追撃せずに一度引きます」
サクは、ふ、と深呼吸した。
この判断により人の命が失われる。
喪失する命が、敵か味方かに過ぎない。
「そのうえで、誘導するつもりの敵軍を、こちらが誘い、敵を死地に陥れます。婦好さま、軍を右に旋回させてください!」
サクは事前に何十通りも作戦を立てていた。
その数あるうちから、ひとつを選び、主に進言しているに過ぎない。
「ああ、ゆこう!」
「全軍、わたしに続け! 迂回!」
商の戦車が迂回している間、再び敵兵が立ち直った。
「なぜ今引くのだ! 突撃せよ!」
と、商の一隊が叫ぶ。
商王直属の兵として参加する将軍・雀だ。
年のころは三十半ばであり、発達した筋骨を覆うようにして銅の鎧を着けている。
雀は大邑商において反乱軍を鎮圧した功績を持つ。
サクは雀将軍を説得している時間はないと判断した。
しかし恐れることなく声を張り上げる。
「もし進めば窮地に陥るでしょう。窮地の際は守りを固めて円陣を作り待機してください!」
「ふん! 童の、それも女の言うことなどは聞かぬ!」
婦好もまた将軍の決断を追認した。
「その選択、尊重しよう! 窮地に陥ればあとで必ず助けに行く! ゆけ! 勇ましき商の戦士よ!」
婦好軍は敵兵に誘導されない。
ただ、商軍の一隊が切り離されたのみである。
まるで敵の舌打ちが聞こえるようだ。
── 雀将軍の一隊はどうなったか。
勇ましい味方は砂塵のうちに消えてゆく。
──救うべきか。
しかし、救おうとして全軍を壊滅させてはいけない。
拳を握った。
──命と機会があれば必ず、助ける。
敵もまた引いていく。
敵のは更なる勝ちを与えてはくれなかった。
──願わくばもう少し、敵に損害を与えたかった……!
ぐっとこらえて対峙した。
その心ひとつで幾多の命を失い、救えることを戦場の経験からすでに知っている。
何かに気づいた婦好が敵方に目を凝らした。
「サク、来るぞ!」
静かなる鬼方の軍隊が二つに分かれた。
中央に別の民族の軍隊が見える。
ドン、ドン、という重たい音と気迫が、戦場を包む。
熊のように巨躯の男が、その出番を待っていたかのように現れた。
「がははははは! 商の野郎ども! ひさしいな!」
「あれは、呂鯤……!」
ぞわっとした震えが足元から全身に駆け巡った。
沚馘西鄙での戦いを思いおこす。キビの敵だ。
「弱き女どもなど、おれの獲物よ! 味方の贄も、そちらが殺さなければ、こちらが殺すまでよ!」
敵の犠牲の少女たちが血飛沫を上げてゆく。
サクは歯を食いしばった。
──落ち着こう。呂鯤を投入して、婦好軍の感情を乱すことが敵の罠だ。
作戦どおりにやれば問題ない。
怒れる心を取り戻すため、サクは自分の右頬を思い切り叩く。
もし再び思考に乱れを生じさせたならば、次は左手に刃を突き刺す、と決意した。
婦好軍に渦巻く感情を吹き飛ばすかのように、婦好が挑発する。
「隻腕の呂鯤よ! ひさしいな! 震え上がって寝ているのではなかったのか!」
呂鯤が獣のように吼える。
「婦好! この幾年、お前たちをどう嬲り殺してやろうか考えていたぞ! この腕の恨み、ここで晴らしてやるわ!」




