桃園の盤上戦
弓臤から伝言があった。
『情報の交換を望む。桃園にて』
サクは桃と縁遠そうな義兄を思い浮かべて、くすりと笑う。
サクは約束の場所へ向かう。
安陽の郊外だ。
桃の花びらの舞うなか、弓臤は盤を机上に置き、サクを待っていた。
この景色は義兄に似つかわしくない、と思った。
「義兄さまがこのような場所にいるなんて、なんだか不思議です」
弓臤は片方しかない目で、にっと笑みを浮かべた。
「愚か者め。この世では、どこで戦になるかわからぬ。花は人を惑わす。浮ついた心は時として利用できることもあるだろう。訪れておいて損はない。さあ。どれだけ強くなったのか、証明してみせよ」
「お手柔らかにお願いします」
「俺は酒を飲んでいるが、手加減はせんぞ」
サクは義兄らしい皮肉に深呼吸をした。
虚な知恵では義兄と対峙する資格はない。
この席に座れていることは誇らしくもあった。
弓臤が駒を並べて、一手を先んじた。
模擬戦も実戦も戦いは始まる前から勝敗に影響する。
義兄の手から火蓋を切るこの戦いは、サクにとっては不利である。
──不利。それはいつだって婦好軍にはつきまとう。
女として生を受け、女性の軍の作戦を考えてきたサクにとっては、何度も直面した問題である。
弱点を抱えて戦わなければならないのは、いまに始まったことではない。
お互いの陣が形作られたとき、義兄は再び言葉を発した。
「商の勢力はいま、過去最大だ。お前たちが守ると言って大きくした影響力の結果だ」
「はい。すべては、婦好さまの長年の戦略であり、この数年の成果でしょう」
沚邑、倉邑、望邑。直接守った地のみではない。
名声は周辺にまで呼応し、反響する。
サクの手元の駒が、ぱちり、と音を立てる。
まるで周辺諸国を制する婦好軍を表すかのように、サクは駒を進める。
「ふふ、不利な状況をあえて演じて誘ったのか」
「油断していると、足元をすくわれますよ」
弓臤の駒が追い詰められた。
駒の持つ影響力を最大化すると、凡人では予想し得ない方向に好転することもある。
「今回の戦略は」
「あまり手を加えずに、勝つことです」
「ふむ。その場合の悪手は?」
「勝ちをねばりすぎることです。勝利にこだわり、しがみつけば戦果に対して損害が大きくなることもあります。少ない力で、戦果を最大にして追いすぎないようにしております」
「なるほど」
「義妹よ。緒戦はお前の勝ちだ」
義兄は盤上を俯瞰して言う。
「優勢というだけです。まだ戦いは終わっていません」
「追い詰められた敵はどのような方策に出るか」
「逆転を狙った賭けに出るものです」
「その通りだ。これは予定されていた結果だ」
駒の持つ影響力というものは脆い。
人はみな、己に利する情報を得ようとする。そのような評判は膨らむのが早い。
悪評もまたすぐに広まる。好意は一夜にして悪意に転じることもある。
影響力を保つのはとても難しい。
盤上においても、義兄の離反作戦が始まった。
しまった、とサクは思うがもう遅い。
「勝負は勝つと思っても負けるし、負けると思っても負ける。勝つときは勝つための道を正しく用意しなければならない」
義兄の渾身の一手である。
「悔しいですが、義兄さまの勝ちです」
「一勝一敗。引き分けだ」
戦いというものは、最後に勝った者が勝者となる。
本当は義兄の勝ちだが、彼は引き分けということにしたいらしい。
「良い戦いだった」
弓臤は駒を集めて、羊の皮袋に収める。
盤上に落ちた桃花も義兄の荷となるのを見つめながら、サクは静かに問うた。
「実戦は、いつになるとお考えですか」
「いいか、義妹よ。花が咲くように、実が成るように、物事には時節というものがある。とにかく、次だ。策をめぐらせることを怠るな」
弓臤はサクに背を向けて、ふっと消えた。
義兄からは水辺のような匂いが残った。




